筑紫の国の片隅で…

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忘れまじ「東京大空襲」の日

本日は「東京大空襲」の日であります。
米軍による本土空襲は、1944年11月から終戦間際にかけて、100回以上も繰り返されました。
その中でも昭和20年3月10日の「東京大空襲」は、一夜にして10万人以上の尊い市民の命が
奪われるという、最大の空襲だったのです。
「東京大空襲」から半年余りの間に、墨田区・江東区などの下町一帯をはじめ、原宿や銀座など
東京の各地が焼き尽くされました。この焼夷弾による無差別爆撃の犠牲者は、女性や子供そして
老人であり、その殆どが非戦闘員だったにもかかわらず、アメリカは「産業基盤を破壊し、戦意を
喪失させるための作戦だった」と言います。しかし無差別に民間人を大量殺戮した「国際法違反」
の行為であり、断じて許されるべきものではありせん。
東京裁判で連合軍は「東京への爆撃は重慶、南京の日本軍のよる爆撃への報復」と詭弁を弄し、
本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍は、明かに非戦闘員を狙ったとする批判に
対して、戦後の回想記のなかで「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊
していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを
作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する
武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…」と述べています。

 

「東京大空襲」

http://youtu.be/elrVqlaQq6E
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
~2013年3月10日 東京新聞より
「戦争、むなしく悲惨」 東京大空襲、体験者が語る「あの日」
約10万人が亡くなった1945年3月10日の東京大空襲から68年。
焼け野原だった下町がビル街に変わっても、炎の記憶や亡き肉親への思いは色あせない。
高齢になった体験者を訪ね、「あの日」のことを聞いた。
「真っ赤な炎が、ゴーゴーと川になって流れていたんです。高さは、あの歩道橋の倍くらい。
消防車やトラックが飛ぶように転がっていきました」
大空襲の夜、都職員だった林喜代子さん(92)=葛飾区=は妹たちと亀戸駅付近のガード下
に逃げていた。「酸欠なのか、おぼれたみたいに鼻で息を吸っても入っていかなくて」
線路の土手へ逃れ、斜面に小さな穴を掘って顔を埋めて耐えた。
警防団の声で気が付くと、火の粉を払っていた手にやけどを負っていた。
真っ黒な骨だけの焼死体がいくつも、両手を空に向けて倒れていた。
「戦争は悲惨なものだって、つくづく思いました」
立川飛行場の対空射撃部隊にいた関口力弥さん(83)=江戸川区=は、東京方面の真っ赤な
空に流れ星を見た。後日、城東区(現江東区)で母と弟が亡くなったと知った。
「おふくろたちがサヨナラを言いに来たんじゃないかと思いました」。
飛行兵に憧れたが、家族の死で戦争の虚しさに気付いた。
今は周辺国との関係が心配だ。「日本も中国北朝鮮も、戦争を忘れた世代になったのか」

    
   「東京大空襲」被災地図

 

 

 


 

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