筑紫の国の片隅で…

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

変貌した「沖縄全戦没者追悼式」

6月23日、沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園で、『戦後70年沖縄全戦没者追悼式』が行われました。

800599.jpg

安倍総理、岸田外相、中谷防衛相、衆参両院議長、キャロライン・ケネディ駐日大使、橋下大阪市長らも出席。
約5400人(主催者発表)が参列し、戦没者の冥福を祈りました。
出席者らが平和への誓いを述べる中、翁長知事のスピーチは追悼とは程遠い、政治色の強い異例のものでした。
翁長知事のスピーチが辺野古関連にふれると、会場には拍手と指笛が響き渡ったのです。また安倍総理が追悼の言葉
を述べようと登壇すると、「何しに来たんだ!」「帰れ!」「嘘言うな!」などといった野次が飛ばされたのです。
悲しいかな厳粛たるべき式典が、その意図を踏みにじった反日左翼によるイデオロギー集会と変容してしまいました。
この野次騒動を海外メディアは見出しを付けて大々的に報じていましたが、翁長知事の発言が慰霊の場に相応しくな
いことや、野次を飛ばし会場から退去させられた人物が、反日反米抗議行動を行っているプロ市民活動家だというこ
とには触れていません。国内の反日マスコミがこの件を報じなかったのは、沖縄の味方面をし「沖縄県民の声を聞け」
と安倍総理や政府を批判している立場としては、下手をすると墓穴を掘りかねないと判断したからに違いありません。
唯一、産経新聞だけが一面で「飛ぶ怒号 慰霊どこへ」の見出しを揚げ、翁長知事のスピーチを批判的に報じるととも
に地元の人達の声を伝えていました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<イギリス国営放送 BBC>
Japan PM Shinzo Abe jeered at Battle of Okinawa ceremony
(日本の首相・安倍晋三、沖縄戦式典で非難を受ける)
http://www.bbc.com/news/world-asia-33229432

6月23日 BBCnews 
(普天間基地野嵩ゲート前で抗議活動を行っている老害活動家です)



2015年6月23日AFP
Bataille d'Okinawa  Abe rend hommage aux victimes



2015年06月23日 AFP(糸満/沖縄)より
安倍首相、「慰霊の日」式典で野次浴びる 沖縄戦70年
太平洋戦争末期に住民を巻き込み多大な犠牲者を出した沖縄戦の終結から70年に合わせ、
沖縄・糸満市の平和祈念公園で23日に行われた沖縄全戦没者追悼式で、挨拶のため登壇し
た安倍晋三首相が参列者から野次を浴びせられる一幕があった。
米軍の沖縄駐留に不満を持つ地元住民らが、檀上にあがった安倍首相に「帰れ」などの野次
を飛ばした。日本で首相が直接市民から野次られることは稀だ。
安倍首相は挨拶の中で「沖縄の人々には、米軍基地の集中など長きにわたり、安全保障上の
大きな負担を担っていただいている」と述べたうえで、「沖縄の基地負担軽減に全力を尽くす」
と語った。
一方、翁長雄志沖縄県知事は、米軍施設の73.8%が、日本の国土面積の0.6%を占めるに
過ぎない沖縄に集中し、県民に負担を強いていると訴え、参列者の温かい拍手に迎えられた。
(c)AFP/Alastair HIMMER
http://www.afpbb.com/articles/-/3052521?pid=16064054

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
平成27年6月24日 産経新聞より
6月24日 産経 沖縄戦没者追悼式 



この時の様子を「沖縄情報グループ」のメンバーの一人が、フェイスに投稿されていましたので転載しておきます。
マスコミが伝えない地元の声が伝わってきます。

6月26日 金子 勝fbより
https://www.facebook.com/markun.yuuki.miu.nao?fref=nf
6月23日沖縄慰霊の日、戦後70年沖縄全戦没者追悼式が沖縄県平和記念公園において行われたことは、
マスコミ等によって大々的に報道されたのでその内容はご承知のことと思う。この式典の趣旨は...
我が県では、太平洋戦争において、一般住民をも巻き込んだ悲惨な地上戦となり、多くの尊い生命とかけがえ
のない財産及び文化遺産を失った。このような冷厳な歴史的事実にかんがみ、戦没者のみ霊を慰めるとともに
世界の恒久平和を願う沖縄の心を発信する。また、今年が戦後70年も節目であることを踏まえ、沖縄戦の歴史
的教訓を正しく伝え、次世代の子どもたちに平和の尊さを継承することを目的とする。 ...とされている。
しかし、今回の式典は、本来の御霊の安らぎを願うものとは程遠い、いや、追悼式とは全く形だけで、線香の煙
ではなく、きな臭い淀んだ空気が漂う言わば政治戦の場となっていた。
翁長県知事の平和宣言においては、内容の三分の二は沖縄の基地問題とその嫌悪感、そして政府に対する要望と
対決姿勢を綴ったもので、およそその内容からは御霊が安らぐどころか彷徨ってしまうのではと怒りさえ覚えた

昨年までの追悼式では、式典会場は鎮魂の場とわきまえた遺族らが参列しており、終始厳かに執り行われていた。
だが今年は、それが一変した。
翁長県知事が読み上げる内容、基地問題に触れたとたんに、会場からは「そうだ!そうだ!」という掛け声とと
もに、「安倍帰れ!」と数人が連呼し始めた。それにつられてか、笑い声と拍手が起きる始末だった。
そして事件は、安倍総理の来賓挨拶の時に起こった。
安倍総理が挨拶をするため演台に歩みだして直ぐに、会場から「安倍帰れ!」などと次々とヤジが飛んだ。
安倍総理が挨拶文を読みはじめると、参列者席に座っていた男性(82歳)が突然立ち上がり、総理の方向に詰め
寄りながら右腕を上げて指差し大声で「安倍総理!」「おい!帰れ!」「何のために来た!」と罵声を浴びせ始め
た。すかさず私服警察官がその男性の進行を遮り、罵声をやめて席に戻るように促した。
座っていた席まで戻し、頭を下げながらやめるようにお願いをする私服警察官に、話を聞いているそぶりを見せた
男性であったが、すぐさま、再び大声で罵声を浴びせ始めた。
これでは、進行の妨げになると会場の外へと誘導し、会場のテントを出た場所で、不足事態の対処方法が書かれた
内容(細部は不明)をこの男性に見せて会場外へと誘導した。
それでもこの男性、会場外からも両手をメガホンのように添えて「安倍帰れ!」と連呼した。
後で判ったことであるがこの男性、基地反対運動を生業とする活動家だった。この男性が仕事としてよく現れてい
る場所は、普天間基地の第3ゲート(通称 野嵩ゲート)前でオスプレイ配備反対のバナーをフェンスに括りつけ、
拡声器で通勤する米兵や軍勤務者へ罵声を浴びせている
のだ。
この男性、キャンプシュワブゲート前での集会そして翁長県知事が呼びかけたセルラードームで行われた集会等な
どの基地反対運動の場には必ずというほど参加していて、言わば翁長県知事の応援者と言っても間違いないだろう。
この男性にについて翁長県知事は、『気持ちはわかる』と記者の質問に答えており、その言葉はこの男性を擁護し
ているかのようであった。
この男性がいた場所の写真を後日見ると、その中には、この男性と共に基地反対運動を生業としている人物が何人
も確認できた
。つまり、この翁長県知事に対する応援の掛け声や安倍総理に対するヤジや罵声は活動家たちの計画
的犯行であったのではないかと私は思った。
この男性がつまみ出される時、2人の男性が警察官に詰め寄り、この男性を助けようとしたり場外へと連れて行か
れるシーンを会場から追いかけて撮影する女性もいた
。どのように連携しているのかは定かではないが式典会場の
外でも安倍総理の車列に飛び出し妨害をした活動家がいたと聞く。
冒頭でも書いたが、このような不穏な行動が式典会場の中でも行われた背景には翁長県知事の執拗な反政府的姿勢
があることは間違いないだろう。
翁長県知事は、辺野古阻止のためにはあらゆる手段を尽くすとまで宣言している。
また、キャンプシュワブ、辺野古海岸、普天間基地を始めとして基地周辺で行われている反対運動は法律や規則を
完全無視した違法行為が行われているにも関わらず、翁長県知事や県選出の革新系国会議員らが積極的に応援メッ
セージを送り、時には激励に訪れている
。このことは、活動家らを刺激し、反戦平和は免罪符とばかりに犯罪をも
ためらいなく、いろいろな手法で阻止行動を起す原動力となってしまっているのでは、と恐怖さえ覚える。
今回の追悼式でこのような行為がなされたことは、翁長県知事の露骨な式典の政治利用と、まるで活動家らが犯行
予告を出すがごとくなされる辺野古埋め立て阻止の策略が、歯止めの聞かない過激思想の活動家を刺激したからだ
と私は指摘する。
厳正な場所で行われた異常な行為を、マスコミ(特に県内)はマナー違反として片付け、翁長県知事の政治利用し
た平和宣言を、これでもかと高評価し応援・擁護する報道に徹している



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

一方、同じ日に、うるま市浜比嘉島ではささやかですが、本来の慰霊といえる集いがありました。
その様子を在日米海兵隊fbが伝えています。こういう事を報じるのが、地元紙の役割ではないでしょうか。

在日米海兵隊fb(6月24日)より
https://www.facebook.com/mcipacpao?fref=photo
沖縄戦終結から70年の節目となる「慰霊の日」を迎え、糸満市にある平和祈念園で
「沖縄全戦没者追悼式」が執り行われましたが、時を同じくして、うるま市浜比嘉島に
ある慰霊碑の前にも住民が集まりました。

うるま市慰霊祭

【沖縄県うるま市】
戦後70回目を数える暑い夏が、また今年もやって来ました。
日本の終戦記念日は8月15日となっていますが、沖縄にとっての終戦記念日は6月23日です。
沖縄戦終結から70年の節目となる「慰霊の日」を迎え、沖縄県糸満市にある平和祈念公園では、
安倍総理やケネディー米駐日大使も参列し、約5400人が出席した「沖縄全戦没者追悼式」が
執り行われました。
時を同じくして、うるま市浜比嘉島にある慰霊碑の前には10数名の島の住民が集まり手を合わ
せて祈りを捧げました。慰霊碑には沖縄の地上戦で亡くなった島民の名前が一人ひとり刻まれて
います。慰霊碑の前に集まった人々の中に、一人のアメリカ人女性の姿がありました。
彼女の名前はクリスティン・シェリー、1968年に沖縄で亡くなった海兵隊施設部隊司令官、
カーミット・シェリー米海兵隊大佐の孫で、遠路遥々アメリカからこの日のために沖縄を訪れて
いました。クリスティンさんは、「浜比嘉島の慰霊の日に合わせてこの島に来ました。島の皆さ
んが慰霊碑の隣に、祖父の記念碑を造ってくれ管理していると聞いて訪ねて来ました」と説明し
ています。
慰霊祭に出席したキャンプ・コートニー副司令官のレイ・ウェルチ博士は、「このような特別な
日に参加できる機会をいただき、皆様に感謝します。いちゃりばちょーでー(沖縄方言で、一度
会ったら皆兄弟の意味)で、これからも皆様との関係を続けていければ光栄です」と参列者に挨
拶しました。
クリスティンさんは「家族を代表して、そして亡くなった祖父に代わりまして皆様に感謝します。
毎年こういった慰霊祭に祖父を含んで頂き、本当にありがとうございます」と感謝の言葉を述べ
ました。
慰霊祭が終了すると数名の住人が慰霊碑近くにある飲食店に足を運び、当時の海兵隊員やシェリ
ー司令官を回想して話してくれました。
戦後すぐに島と海兵隊との繋がりが始まり、海兵隊員は毎週土曜日、食料、木材やペンキを持っ
て船で渡ってきて、民家を建てたり学校を修理したりして、日曜日の夕方に帰って行きました。
ドラム缶で風呂を沸かし、島民を入れたり、発電機を設置して、島民の暮らしに電気を導入したり、
当時、島には電話がなく、ある日一人の海兵隊員が電話線を持って泳いで向こう岸に渡り、電話線
をつなげてくれた事もありました。 こうして、海兵隊と島民の交流は深まっていきました。
シェリー司令官や彼の部下達は、荒廃した島の復興に尽力し、教会、小中学校、公民館や貯水池の
建設を支援しました。この貯水池は、現在も島の農業用灌漑用水として活躍しています。
島の住民達は彼が亡くなった後、感謝を示すため、1968年に記念碑を建立し、毎年6月23日
に慰霊祭を行ってきました。慰霊碑の管理を何十年も行ってきている盛根良二さんは「シェリー司
令官はとても親切でした。何時間も掛けてシェリー司令官の記念碑のプレートを磨きました」と話
しています。
最後にクリスティンさんは「アメリカから遥か遠く離れた、多くのアメリカの人達が名前さえ知ら
ない小さな島に、おじいさんの記念碑があるなんて信じられないくらい夢の様な話です。島の人達
が、おじいさんを記憶に留めていて、私たち家族の名誉でもあり、嬉しくもあります。島の人達に
本当に感謝します」と話しています。


//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

<参考として>
平成27年6月24日 産経新聞 【戦後70年~沖縄】より
20年3月26日から6月23日まで沖縄で続いた地上戦は凄惨を極めた。51年3月に沖縄県援護課が発表した
データによると、日本側の死者数は18万8136人。うち沖縄県出身者は12万2228人、一般人は9万4千
人だった。
沖縄県民の4人に1人が亡くなったとされる。日本列島の南端に位置する沖縄がなぜこれほどの戦場と化したのか。
19年7月7日、日本が本土防衛上の最重要拠点と位置づけたサイパン島が陥落した。
これにより、「超空の要塞」と呼ばれた米軍B29爆撃機が無給油で日本のほぼ全土を爆撃可能となった。
11月24日には、サイパンを飛び立ったB29爆撃機が東京を初空襲した。
だが、米軍にはまだ不安があった。小笠原諸島南端の硫黄島と沖縄本島。
日本軍がこの2島に残存する海空兵力を結集して徹底抗戦すれば、甚大な被害を覚悟せねばならないからだ。
日本軍も2島を死守すべく動いた。大本営は直轄部隊として、硫黄島に陸軍中将 栗林忠道指揮下の小笠原兵団約
2万1千人を、沖縄には陸軍中将 牛島満の下に第32軍約8万6千人を配備した

一方、米軍は19年10月25日、対沖縄攻略「アイスバーグ(氷山)作戦」を正式決定。直前の10月10日に
沖縄本島に艦載機による大規模空襲を行い、那覇市街地の9割を焼失させた。
硫黄島で栗林率いる守備隊が玉砕した直後の20年3月26日、米陸軍中将のバックナー率いる第10軍は慶良間
諸島に上陸。4月1日早朝から沖縄本島侵攻を敢行し、その日のうちに北(読谷村)、中(嘉手納町)の両飛行場
を占領した。
これ程あっさり上陸できたのは、牛島が水際決戦を避け、首里(那覇市)に陣を固め、持久戦に持ち込んだからだ。
すでに制空権、制海権を奪っていた米軍はごく短期間での占領を想定していたが、日本軍はしぶとく戦った。
それでもジリジリと南端の摩文仁に追い詰められ、牛島は6月23日に自決、組織的戦闘はここで終結した。
沖縄戦で米軍が投じた艦艇は約1500隻、兵力は延べ54万8千人、艦砲射撃などで使用した砲弾は約270万
発に上った
。「鉄の暴風」といわれる凄まじい攻撃を仕掛けながら沖縄攻略に3カ月を要し、司令官のバックナー
を含む1万2千人超が戦死した。米陸軍省の報告書では、「沖縄で払った代償は高価なものだった。
米軍の死傷者の最終的な対価は、日本軍に対するどの方面作戦で経験したものより高かった」と総括している。
残念ながら戦後日本での沖縄戦の評価は総じて厳しい。
大本営が20年1月の帝国陸海軍作戦計画大綱で「沖縄作戦は本土戦備のために時間を稼ぐ持久戦である」と位置
付けたこともあり、「沖縄は捨て石にされた」という批判もある。
だが、本当に沖縄が捨て石だったならば、大兵力を投じて守ろうとはしない。第32軍以外にも、沖縄防衛のため
多くの特攻隊員が散り、戦艦大和も海上特攻を決行、鹿児島沖で撃沈された
。沖縄を見捨てず守ろうとしたがため
に被害が拡大したとみるべきだろう。
海軍陸戦隊を率いて戦った少将の大田実は、6月13日の玉砕直前に海軍次官に送った電報で、沖縄県民の協力と
支援を讃え、その窮状を訴えた上でこう結んだ。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」





6月24日 産経 沖縄戦の経緯 

6月24日 産経 沖縄戦2 

6月24日 産経 沖縄戦の兵力 




関連記事
スポンサーサイト

テーマ:沖縄問題 - ジャンル:政治・経済

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://metalhorse.blog.fc2.com/tb.php/394-21045ff0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。