筑紫の国の片隅で…

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集団的自衛権行使=戦争というプロパガンダ

6月18日の人民朝日の記事によれば、“集団的自衛権の閣議決定に反対する人たちが17日、全国で声をあげた”そうです。さらに記事は
“戦争体験者がいた。法律の専門家がいた。初めて参加した母親もいた。(略)危機感を持つ市民たちが声を強めている”“各地で共通し
ているのは、政権の考え一つで憲法が骨抜きにされる国のありようと、崖っぷちに立たされた「平和主義」への危機感だ”と続き、参加者
の訴えを紹介しています。日比谷野外音楽堂に約5千人が集まり、「9条こわすな」「戦争反対」と書いた紙を掲げたとのことです。

「集団的自衛権の行使=戦争」という、朝日・毎日のプロパガンダに煽動された民衆の愚かな行為としか思えませんが、彼らの世界には
他国からの侵略という脅威は存在しないのでしょうか・・・。
いかに我が国が平和主義を主張したところで、他国による「急迫不正の侵害」が起こらないという保証は無いのです。想定外では済まな
いのです。その状況下に置かれたとき、彼等はどうするつもりなのでしょうか?
批判し反対するのは言論の自由です。しかし、「解釈改憲は認めない」とか「9条を守れ」などという宗教論ではなく、国家・国民をどうや
って守るのかという具体策を明示すべきでしょう。それもせずに空想的観念論を振りかざすだけの批判は、何の説得力もありません。
また、集団的自衛権行使に反対する、反日マスコミや左翼勢力、反日リベラル派文化人達が「立憲主義に反する」と主張して、安倍政権
を糾弾していますが、これっておかしくないですか?これまでの経緯の中で、安倍政権が憲法を無視し、憲法の規定に沿わない違法行為
を何かやっていますか?もし有るのなら、具体的に指摘して欲しいものです。
現在、安倍政権が進めているのは、安保法制懇から提出された報告書をもとに政府与党内で協議し、その結果を立案化したうえで閣議
決定をしようというものです。これは、国家権力の三権分立の一機関である行政府が、「こういう憲法解釈をします」と決めるだけです。
さらに言うなら、閣議決定しただけでは何もできません。関連する国内法を整備し、国会(立法府)の審議をへて、可決成立させる必要が
あります。仮に、関連法が成立したとしても最高裁で「違憲判決」が出されれば、法的に無効になってしまいます。
この流れのいったい何処が「立憲主義に反する」というのでしょうか・・・。私には理解できません。
安倍政権打倒を目論む反対派は、「集団的自衛権行使」ばかりを取り上げてネガティブキャンペーンを繰り返していますが、安保法制懇
から提出された報告書を真面目に読んだことがあるのでしょうか?
一般大衆の一人である私が報告書を読んでみて分かるのは、その要旨は「安全保障の法的基盤の再構築」をどうすべきか、という内容
だということです。これに基づいて大きく①憲法解釈の現状と問題点、②あるべき憲法解釈、③国内法制の在り方 ― というようにまとめ
られています。「集団的自衛権行使」は、その中のほんの一項目に過ぎないのです。
現在の世界情勢において、日本の領土・領海を、国民の生活と安全を「急迫不正の侵害」から守るには、何をどうすべきかという提案が
示されているのです。

私はごく普通の庶民で若くもありませんが、『教育勅語』のなかにある「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」という精神を大切しています。
愛する家族、友人が、郷土が危機に晒されそうになったとき、何をすべきかを、この一文が教示してくれていると思っているからです。
我が愛する日本が、チベットやウィグルのように独裁国家に蹂躙されるのを、黙って受け入れることなど絶対に出来ないのです。

~参考~
「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」報告書 (PDF)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/anzenhosyou2/dai7/houkoku.pdf

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平成26年6月17日 産経新聞 【正論】より

集団的自衛権行使は「戦争」に非ず

大江健三郎氏らが中心の「九条の会」は先日、発足10年の集会を開いた。同氏は折からの集団的自衛権行使問題に触れ、報道によれ
ば、「戦争の準備をすれば戦争に近づいていく」と語った。その2日後、同氏も加わる「戦争をさせない1000人委員会」が175万筆の集団
的自衛権行使反対の署名を国会に提出した由である。いずれも、集団的自衛権の行使とはすなわち戦争をすることだと捉えているらしい。

◇意図的に使う大江氏と朝日
5月15日、第2次「安保法制懇(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)」が、報告書を安倍晋三首相に提出した。
翌日付の朝日新聞は、「集団的自衛権 戦争に必要最小限はない」と題する6段ぶち抜きの長大社説を掲げ、いみじくも「自衛権の行使
=戦争」なる中見出しを打った。これまた、集団的自衛権の行使イコール戦争だと捉えている。
馬鹿も休み休み言うがよい。大江氏は高名な作家だし、朝日はインテリ紙なのだろう。だから、用語には人一倍うるさいだろうと思ってきた。
今でもそう思っている。
その両者が「戦争」を連呼するのはなぜか。思うに2種の解釈があり得る。(1)無知から出た用語間違い(2)策略による用語選択。
(1)だと見ては失礼だろう。大江氏も朝日も、間違い御免の床屋政談をやっているわけではあるまいから。
だとすれば、(2)になる。両者は不適切な用語を意図的に反復使用し、聞き手、読み手を自分の思う方向へ誘導しようとしている。
巷間、そういう行為を煽動と呼ぶ。
「安保法制懇」報告を読んで、集団的自衛権行使の容認とは戦争準備のことだと説明するのは無茶だ。どこをどう読んだら、そんな説が
成り立つのか。同報告は憲法解釈をめぐり息苦しいまでに理詰めの文書で、感情が立ち入る余地は皆無である。
それも道理、集団的自衛権は国連憲章抜きでは議論できず、わが国の現行政府解釈、すなわち「国際法上は保有、だが憲法上は行使不
可」もまさにその線上での議論である。ともに感情を抑えて砂を噛む思いに耐える覚悟なしでは理解できない。
 
◇国民の説得と煽動とは違う
日本国憲法は「戦争の放棄」を謳(うた)う。これは「戦争の違法化」を法典化した国連憲章と整合関係にある。その憲章第51条が全国家
に「個別的、集団的自衛の固有の権利」を認めている。 むろん、「戦争の権利」ではない。
大江流、朝日流の「それは戦争する権利だ」説を聴けば、世界中にブーイングが起きること間違いなしだ。朝日も大江氏も「井の中の蛙」
の議論をやっている。大海には目を閉ざしている。なぜか。その方が大衆煽動には都合がよいからだ。が、それは国民説得の道ではない。
煽動と説得とは大違いで、説得に煽動は不要。 地味でよい。 一言補うと、戦争という言葉は情況説明のために日常、しばしば使われる。
私だって使う。 が、こと自衛権の法理、文理的説明のためには、この用語を使ってはならない。 この点、肝に銘ずべきだ。
私は自分の経験から集団的自衛権について有権者の99%は理解ゼロだと考える。有権者1億400万強の1%は104万強だが、この抽象
的概念を曲がりなりにも説明できる人数はそれ以下だ。99%の有権者にとり、それは正体不明の〈妖怪〉なのだ。

◇現代日本版〈妖怪〉が彷徨
そう、19世紀中葉にカール・マルクスが「共産主義という妖怪が欧州を彷徨している」と言ったが、集団的自衛権は、それに似た現代日本
版〈妖怪〉なのだ。賢人たちが、その行使は戦争に繋がるとおっしゃる。 おお怖い-。 とはいえ、日本の有権者だけが無知なのではない。
国民の99%が、この〈妖怪〉の理解度ゼロなのは他国でも同じこと。違いは、他国はそれで一向に困らないのに、わが国だけがこの抽象
的概念を理解するよう求められている点だ。他国では国連憲章第51条の集団的自衛権はすべての国が保有し、行使できると理解されて
いて、ゆえに国民的議論は不要である。わが国だけが負うべき宿命と言おう。
「消費税8%への引き上げ」とか「一票の格差」とかの問題だと国民は理解できるし、賛否も言える。ところが、集団的自衛権問題で、その
行使の是非を問われると、国民は理解ゼロの問題だけに答えに迷う。
すると、「妖怪が彷徨すると戦争なのだぞ」という賢者のご託宣が聞こえる。大衆は「そうかもしれないな」と思う。
他方、「戦争だぞ」と脅さず、かくかくしかじかの具体的ケースで集団的自衛権による「反撃」には賛成ですか反対ですか、と世論調査する
と、賛成多数となる。世論は揺れている。世論獲得戦はなお熾烈化する。我田引水型の世論調査も横行する。
煽動派には、メガホンと国会周辺という舞台装置は不可欠らしい。逆に説得派にとり、それらは不用、むしろ有害である。有権者の情動化
が目的ではないからだ。分かりにくいことを、諄々(じゅんじゅん)と説き続ける持続心が必要とされる。

(防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛)

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6月16日 PHP Biz Online 衆知(Voice) より

集団的自衛権は「正当防衛」だ

■日本の国際的責任はどこへ ―他国の安全に思いが至らない日本人の恥ずかしさ―

◇法律に関する常識を知らない
安倍晋三総理は、5月15日に有識者懇談会(安保法制懇)から提出された報告書を踏まえて、政府としての検討の進め方の基本的
方向性を示した。この方針に対して、護憲派のマスコミは反発している。
『毎日新聞』は、16日付の社説で「集団的自衛権 根拠なき憲法の破壊だ」としている。また『朝日新聞』は5月3日付社説で日本近
海での米艦防護を例に挙げ、「個別的自衛権や警察権で対応できる」「ことさら集団的自衛権という憲法の問題にしなくても、解決で
きるということだ。日本の個別的自衛権を認めたに過ぎない砂川判決を、ねじ曲げて援用する必要もない」と記した。
だが、「個別的」「集団的」の違いを言挙げして自衛権の問題を論じているのはこの日本だけである。前記の社説をもし英訳して海外
に配信したら、世界中の笑い物になるだろう。 なぜか---。 根本的に、法律に関する国際常識を知らないからだ。
その常識とは何か。欧米において自衛権が、刑法にある「正当防衛」との類推(アナロジー)で語られているということである。
実際に以下、日本の刑法で正当防衛を定めた条文を見てみよう。

……………………………………………………………………………………………………………・
第36条
1、急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2、防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

……………………………………………………………………………………………………………・

正当防衛の条文であるにもかかわらず、「他人の権利を防衛する」という箇所があるのに驚かれた読者がいるかもしれない。
しかし、これが社会の常識というものである。
自分を取り巻く近しい友人や知人、同僚が「急迫不正の侵害」に遭っていたら、できるかぎり助けてあげよう、と思うのが人間である。
そうでない人は非常識な人と見なされ、世間から疎まれるだけである。少なくとも建前としてはそうだ。もちろん実際の場合には、「他人」
と「自己」との関係、本人がどこまでできるかどうか、などで助けられる場合も、そうでない場合もあるが。国際社会の論理も、何ら変わら
ない。「自己」や「他人」を「自国」「他国」と言い換えれば、つまるところ国際社会では「急迫不正の侵害に対して、自国又は他国の権利
を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」。
そのまま自衛権の解釈として成立することがわかるだろう。英語でいえば、自衛権も正当防衛も同じ言葉(self-defense)である。
繰り返すが、正当防衛をめぐる条文は、万国問わず「自己または他人」への適用が原則である。
したがって、自衛権の定義において「個別的か集団的か」という問いが国際的に通じないことはもはや明らかであろう。
冒頭に引用した社説のような「個別的自衛権や警察権で対応できる」という意見は、他国が攻撃されても自国が攻撃されたと見なして
個別的自衛権で対応できるので、集団的自衛権は不要という意味だ。一見もっともらしいが、国際社会では通じない。
というのは、正当防衛でも、「他人」の権利侵害を防ぐために行なう行為を、「自己」の権利侵害と見なす、と定義するからだ。
つまり、他国への攻撃を自国への攻撃と見なして行なうことを、集団的自衛権と定義するのであるから、冒頭の社説を英訳すれば集団
的自衛権の必要性を認めているという文章になってしまう。
そのあとで、集団的自衛権を認めないと明記すれば「私は自分の身しか守らない。隣で女性が暴漢に襲われていようと、警官がいなけ
れば見て見ぬふりをして放置します」と天下に宣言しているのと同じである。いくら自分勝手な人間でも世間の手前、上のような発言は
表立っては控えるのが節度であろう。よく恥ずかしげもなく、とは思うが、しかし戦後の日本政府は、無言のうちにこの社説と同じ態度を
海外に示しつづけていたと思うと、憲法前文にある「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」を恥ずかしく思ってしまう。
ついでにいえば、憲法前文で「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とも書かれている。個別的自衛
権のみを主張するのは、この理念からも反している。
集団的自衛権の反対論者がいう「巻き込まれ論」は、国際的に日本だけが「見て見ぬふり」を公言していることになるのをわかっていな
い。地球の裏側まで行くのか、という議論も極論である。正当防衛論から見れば、「緊迫性」「必要性」「相当性」が求められているので、
地球の裏側というのは、そうした要件に該当するものとはなりにくいから、極論といえるわけだ。

◇内閣法制局の掌握事項ではない
このように正当防衛とのアナロジーで見ると、自衛権に対する批判は利己的なものであり、論理的にも、倫理的にも破綻していることが
わかる。もちろん正当防衛と同じように、国際法のなかでは自衛権の行使にあたって歯止めとなる条件が存在する。
正当防衛の条文が示している「緊迫性」があることに加えて、その防衛行為がやむをえないといえるために、「必要性」と同時に、限度内
のものである「相当性」が求められている。防衛の範囲を超えた攻撃、すなわち「過剰防衛」になってはいけない。さらに、他国の「要請」
があることが条件となる。
民家で襲われている人が隣人の助けを拒否するとは考えにくいが、それでも最低必要限度にしなければならない。
国内法や国際法は、それ自体で漫然と存在しているわけではない。互いに厳密な整合性と連関をもっている。
個人の正当防衛が認められるにもかかわらず、国家の自衛権が認められないとすれば、日本の刑法36条が憲法違反ということになって
しまう。国内法における個人の正当防衛という延長線上に、国際法における国家の自衛権がある。この当たり前の常識を理解している人
が日本ではきわめて少ない。
加えて日本特有の事情として、内閣法制局という政府の一部局にすぎない組織が権威をもっている点が挙げられる。
内閣法制局の役割は総理に意見具申をするところまでであって、「集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更」などという大それた権限を掌
握できるポストではないのだ。
ところが、東大法学部出身の霞が関官僚が、あたかも自らを立法(国会)と司法(裁判所)の上位に立つかのように、法案づくりと国会の
通過、さらに法律の解釈に至るまで関与しようとする。そのこと自体が異常な現象なのである。
にもかかわらず、霞が関官僚の仕事ぶりの基本は「庭先掃除」だから、国内を向いた仕事しかできない。
自衛権や正当防衛の国際的理解などは一顧だにせず、ひたすら立法府を形骸化させている。官僚は、表向き立法を司る国会を否定はで
きないので、内閣に法案を持ち込んで閣法(内閣提案立法)をつくらせ、実質的に立法府の権限を簒奪していく。
これは国会議員が仕事をしないからで、議員立法をしない政治家の怠慢が問題である。

■総理の危機意識を共有すべき

◇「9条にノーベル平和賞」はない
もう1つ、自衛権の行使容認に反対する人が決まって口にするのが「憲法9条の護持」である。
護憲の主張はおろか、近年では「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会なる組織が活動を行なっているという。
国会議員の福島瑞穂氏はこの運動に賛同して、憲法9条に対する「推薦文」をノルウェーのオスロにあるノーベル平和賞委員会宛てに
送付した。

………………………………………………………………………………………………………………………………
〈推薦文の概要〉(プログ「福島みずほのどきどき日記」2014年4月18日より、字間の空白は引用ママ)

ノルウェー・ノーベル委員会 御中

 日本国憲法は前文からはじまり 特に第9条により 徹底した戦争の放棄を定めた国際平和主義の憲法です。
特に第9条は、戦後、日本国が戦争をできないように日本国政府に歯止めをかける大切な働きをしています。
そして、この日本国憲法第9条の存在は、日本のみならず世界平和実現の希望です。しかし、今、この日本国憲法が
改憲の危機にさらされています。
世界各国に平和憲法を広めるために、どうか、この尊い平和主義の日本国憲法、特に第9条を今まで保持している
日本国民にノーベル平和賞を授与してください。

…………………………………………………………………………………………………………………………………

国際常識を知る者から見れば、冒頭の社説と同様、顔から火が出るほど恥ずかしい文章である。なぜなら9条にある戦争放棄は、べつに
日本の憲法だけにある規定ではないからだ。次の表は、日本との比較で韓国、フィリピン、ドイツ、イタリアの戦争放棄をめぐる条文を記し
たものである。一見して、日本国憲法9条の戦争放棄に相当する条文が他国の憲法に盛り込まれていることがわかる。
とくにフィリピンの憲法には「国家政策の手段としての戦争を放棄」とはっきり書いてある。「憲法9条にノーベル平和賞を」授与しなけれ
ばならないとしたら、フィリピンにもあげなければならない。
希少性のないものを顕彰する理由はないので、日本の憲法9条にノーベル平和賞が授与されることは、世界で現行の憲法が続くかぎり
永遠にない。
このように少し調べればでたらめとわかる話で、憲法改正に反対したいためにノーベル賞まで持ち出す意味を筆者は理解しかねる。


<日韓比独伊の憲法比較>

【日 本】
第9条
(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

【韓 国】
第5条
(1)大韓民国は、国際平和の維持に努力し、侵略的戦争を否認する。
(2)国軍は、国の安全保障と国土防衛の神聖な義務を遂行することを使命とし、その政治的中立性は遵守される。

【フィリピン】
第2条
(2)フィリピンは国家政策の手段としての戦争を放棄し、そして一般に認められた国際法の原則をわが国の法の一部分として採用し、
すべての諸国との平和、平等、正義、自由、協力、そして友好を政策として堅持する。

【ドイツ】
第26条
(1)諸国民の平和的共存を阻害するおそれがあり、かつこのような意図でなされた行為、とくに侵略戦争の遂行を準備する行為は、
違憲である。これらの行為は処罰される。
(2)戦争遂行のための武器は、連邦政府の許可があるときにのみ、製造し、運搬し、および取引することができる。詳細は、連邦法で
定める。

【イタリア】
第11条
イタリアは他の人民の自由を侵害する方法としての戦争を否認する。
イタリアは、他国と等しい条件の下で、各国のあいだに平和と正義を確保する制度に必要な主権の制限に同意する。
イタリアは、この目的をめざす国際組織を推進し、支援する。

(出所:https://www.constituteproject.org/ http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worIdjpn/)


◇なぜ日米は同盟を結んでいるか
筆者がプリンストン大学で勉強したのは経済学ではなく、国際関係論である。
マイケル・ドイル(プリンストン大学助教授、現在はコロンビア大学教授)という国際政治学者が私の先生で、カントの『永遠平和のため
に』を下敷きにDemocratic Peace Theoryを提唱した人物である。「成熟した民主主義国のあいだでは戦争は起こらない」という理論
で、たしかに第二次世界大戦後の世界を見れば朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争やイラク戦争など2国間ないし多国間で戦争が起
きる場合、いずれかの国が軍事政権あるいは独裁政権であった。イギリスとアルゼンチンとの間で生じたフォークランド紛争でも、アルゼ
ンチンは独裁政権だった。
ドイル先生のいうように、民主主義国の価値観や手続きのなかで戦争が勃発する事態は現代の世界において考えづらい。
彼の理論を日本と中国に当てはめれば、日本は民主主義国家だが、共産党一党独裁国家の中国はそうではない。
この一点を見れば、なぜ日本とアメリカが共に民主主義国として同盟を結んでいるのか、根本的な理由を知ることができる。
私がドイル先生に国際政治学を学んでいた1998年当時から、日本の平和憲法は特別ではないという点、自衛権の行使を妨げる議論が
おかしいことは聞いていた。たいへん説得力のある話で、日本で巷間いわれる平和論が、いかに論理を欠いているかを理解することがで
きた。たとえば国際法をわずかでも勉強すると、集団的自衛権が国連憲章51条に規定されていることに気付く。
「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間
、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」。
つまり武力攻撃に対しては最終的には国連の安保理によって解決するのが最も望ましいが、それに至る過程でその国が占領支配されな
いように、(個別的・集団的の別を問わず)自衛権で対処するという発想である。
もちろん安保理が機能して対応を図るのが最善だが、そうならない局面も現実には起こりうる。
場合によっては、中国のような安保理の常任理事国が紛争当事者となり、拒否権を発動するケースも考えられる。
実際に2014年3月、常任理事国であるロシアがクリミアをロシアに併合した際、国連は何もできなかった。
万が一、日本が他国からの武力攻撃を受けた際は当面、自衛権でしのぎ、安保理に報告を行ないつつ最終的な解決に結び付けるという
のが最も現実的な選択である。その際、日本一国で中国のような軍事国家の侵攻に持ちこたえられるか、という問題が生じる。
だからこそ、日本は他国と「正当防衛」を共に行なえる関係を構築すべきだ。
具体的に筆者が提唱するのは、NATO(北大西洋条約機構)のアジア版である。ウクライナがクリミア侵攻を許したのは、ひとえにNATOに
加盟していなかったからだ。NATO自体がいわば集団的自衛権の固まりのようなものであり、わが国も安保理の措置が機能しなかった際
に、日米の2国間同盟だけでは対処しきれない事態が発生することを想定する必要がある。
2014年5月、中国がベトナムの排他的経済水域(EEZ)を公然と侵し、石油掘削作業を進めようとしてベトナムと衝突した。
南シナ海では中国に加えて台湾、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイが領有権を主張している。
2002年にASEAN(東南アジア諸国連合)が中国と結んだ自制と協調をめざす行動宣言はあっさり無視され、ベトナムが面と向かって中
国と対峙せざるをえない状況が生まれた。
中国の台頭と膨張により、南シナ海における中沙諸島・西沙諸島・南沙諸島と同じ領土危機が、日本の尖閣諸島に起こりうる事態はいっ
そう切実なものになっている。いま安倍総理が感じている危機意識と「緊迫性」をわれわれも共有すべきではないか。

高橋洋一(たかはし・よういち) 嘉悦大学教授
1955年、東京生まれ。1980年、大蔵省(現財務省)入省、理財局資金企画室長、内閣参事官などを歴任。
小泉内閣、第一次安倍内閣で「改革の司令塔」として活確。2008年・山本七平賞受賞。
近著に、『消費税でどうなる?日本経済の真相【2014年度版】』(KADOKAWA/中経出版)がある。

(『Voice』2014年7月号より)

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2014年6月18日 朝日新聞デジタルより

■今、声をあげる 各地でデモ・集会 集団的自衛権

集団的自衛権の閣議決定に反対する人たちが17日、全国で声をあげた。東京都千代田区の日比谷野外音楽堂では約5千人
(主催者発表)が「9条こわすな」「戦争反対」と書いた紙を掲げた。東京都新宿区の公明党本部前にも40人余りが集まり、
「公明党はしっかり」と声をあげた。大阪や名古屋でもデモや集会があった。

6月18日朝日01

■平和憲法崖っぷち 各地でデモ・集会・人の鎖

戦争体験者がいた。法律の専門家がいた。初めて参加した母親もいた。安倍政権が目指す集団的自衛権の行使容認に反対して
17日、各地であったデモや集会。「解釈改憲にNO」「戦争をする国に反対」。危機感を持つ市民たちが声を強めている。
横浜市では、横浜弁護士会の呼びかけに応じた約200人が、風船を配りながら「憲法9条をどう読んでも、戦争参加を許すとは書
いていない」と訴えて、繁華街を練り歩いた。会として街頭行進をするのは、国家秘密法の反対デモをして以来、二十数年ぶりという。
金沢市では、行使容認の賛否を問うシール投票が11日から続いている。
各地で共通しているのは政権の考え一つで憲法が骨抜きにされる国のありようと崖っぷちに立たされた「平和主義」への危機感だ。
大阪市の大阪YWCAで開かれた「けんぽうCafe(カフェ)」。ふだんはチラシなどで集まった女性たちが、お茶菓子を囲みながら憲法
について「ゆる~く、気軽に」考える集まりだが、17日の参加者は真剣そのものだった。ある女性は「閣議決定をされたら終わり、という
感じがする」。 まず自分が動かねば、という思いで、デモや集会に来た人も少なくなかった。
長野市の集会では、沖縄戦を体験した市内在住の親里千津子さん(82)が「一人の力は弱いが、団結して平和の道に貢献していきま
しょう」と訴えた。13歳の時、目の前で母や祖父を失った。「戦争も平和も人間がつくること。絶対に戦争に手を貸してはいけません」
東京都日野市の私大職員の男性(40)は、ツイッターの呼びかけに応じて日比谷野外音楽堂の集会に来た。「沈黙は服従なり、という
言葉もある。反対の意思表示をしたいと思った」
小学生の子どもが4人いる千葉県市川市の介護士、阿部智美さん(35)は初参加。「子どもたちが戦争に巻き込まれるかもしれないと
思ったら居ても立ってもいられなかった」と言う。
同じ集会に参加した千葉県館山市の元教師、田中良子さん(77)は「国家の犠牲になるのは一人ひとりの国民。平和の党である公明
党や支持者の皆さんには、日頃の生き方を貫いてほしい」。
公明党の国会議員全員に1日がかりで手書きのファクスを送り、「政権にいる立場で責任を果たしてほしい」と訴えたという。
東京都新宿区の公明党本部前での「人の鎖」を企画した杉原浩司さん(48)。「自民党にずるずると押され続けながらも、公明党はブ
レーキ役を果たしてきた。最後の命綱だと思う」


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