筑紫の国の片隅で…

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元大日本帝国陸軍少尉・小野田寛郎さん死去

1月16日に91歳で亡くなられた元大日本帝国陸軍少尉・小野田寛郎さんについて米国で報道され
たのみならず、ブラジルでも報じられました。また「ロシアの声」でも取り上げていました。
世界各国で「最後の日本兵」として尊敬されていたんですね。
心よりご冥福をお祈りいたします。(最敬礼)

小野田寛郎さん=1974年3月 11日





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2014年1月20日 サンパウロ新聞【東京支社=瀬頭明男】より

小野田寛郎さんが死去 ルバング島で戦った30年
ブラジル移住後、福島で「自然塾」も


1975年にブラジル移住した元陸軍少尉の小野田寛郎さんが16日、東京都内の病院で亡くなった。
91歳だった。2012年ごろから体調を崩すことが多くなり、入退院を繰り返していた。
12年2月、ブラジルから日本に戻る途中のニューヨークで倒れ、緊急入院したこともあった。
今回は年明けの6日に体調を崩し都内の病院に入院、肺炎にかかり帰らぬ人となった。
小野田さんの一生は、波乱に富んだ人生だった。
1942年、和歌山歩兵連隊に入隊後、予備士官学校を経て諜報・防諜を学ぶ陸軍中野学校二俣分
教所で情報将校としての訓練を受け、44年フィリピン・ルバング島に派遣された。
終戦後も同地に残置諜者として残り、74年に任務解除命令を受け帰還するまでの30年間、戦闘を
続行していた。長期にわたって戦い続けた理由を小野田さんは本紙に「日本の本土が占領された
ことは分かっていた。それでも活動を続けることが、私に与えられた任務だった」と話している。
小野田さんは投降勧告、日本からの捜索隊の呼び掛けに応じることもなく、74年3月に当時の上官
による作戦解除命令によってやっと帰還した。
この30年間に、小野田さんと一緒に作戦に従事していた島田庄一伍長、小塚金七一等兵は現地で
亡くなり1人だけでの帰還だった。
翌75年、兄の格郎(ただお)さんが住むブラジルへの移住を決意、実行に移した。移住を決意した
理由を小野田さんは「当時、日本人に準敵国人のように見られ暮らしにくかった。新しいことをやる
ならブラジルにしよう、そこなら日本人の目を気にせずに暮らせるだろうと思った」と語っている。
ブラジルでは、バルゼア・アレグレ移住地(マット・グロッソ・ド・スル州)に1,200ヘクタールの土地
を購入、そこで牧畜業を始めた。10年たって軌道に乗り、移住地の日本人会会長を務めるなどの余裕
も生まれた。
その後、日本で子供が両親を金属バットで殴り殺すという事件が起きた時、「このような子供は可愛
そうだ。子供たちの役に立とう」と84年、福島県に「小野田自然塾」を開き、子供たちの教育に力を
入れ始めた。この自然塾に参加した子供は2万人を超える。
この頃から小野田さんは、日本とブラジルを往来しながらの生活に入り、北陸大学、拓殖大学などで
講師として勤めたり、各地で講演を行っていた。
小野田さんは「私が死んだら自然塾も終わりです。建物などは町に譲渡する手もありますが、使い方
が分からなければお荷物になりかねない」と話しており、その去就をどうするかを明言しないまま逝
ってしまった。小野田自然塾では22日に会合を持ち、今後のことについて話し合うことにしている。
自然塾のある福島県・塙(はなわ)町でも「自然塾の意向がはっきりしてから対応を協議したい」と
している。   
バルゼア・アレグレ移住地関係者によると、小野田さんは昨年12月初旬から数日間、来伯して同移住地
を訪問。その目的は、自身の土地を処分するための委任状を手渡すためだったという。
またカンポ・グランデ空港に見送った移住地関係者によると小野田さんは、「もう来られないだろう
から」と話していたそうだ。
生前、小野田さんと懇意にしていた兵庫県人会長の尾西貞夫さん(70、兵庫)は同氏の人柄について
「温厚な人だったが頑固な性格で、こうと思ったら引かない人だった」と語る。
また、70年代に小野田さんがバルゼア・アレグレ移住地の農場を造成する際に、元プロレスラーの
アントニオ猪木氏らが資金貸与するなど協力したことや、陸軍中野学校二俣分教所の同期で小野田
さんの面倒を見た、故末次一郎氏のことなどにも触れ、当時のことを振り返った。
小野田さんは、2004年にサントス・ドゥモン章、05年に藍綬褒章を受章。マット・グロッソ・ド・スル
州の名誉州民でもあった。


■小野田寛郎さんを偲ぶ
小野田寛郎さんが亡くなった。
1974年、ルバング島から帰還した小野田さんは、兄の小野田格郎さんがブラジルに移住していたこと
もあり、同年、弊社の創業者・水本光任の招きで来伯。それが縁でブラジルに移住し、妻の町枝さんと
の結婚式も水本夫妻が仲人となり水本邸で行われた。
▼マット・グロッソ・ド・スル州のバルゼア・アレグレで牧場を営み、その後本拠を日本に据えたが、毎年、
 年末年始には来伯していた。以前からサンパウロで小野田さんの講演会を開きたいと考えていたの
 だが、なかなか実現できなかった。
▼一昨年の正月だった。体調を崩していたのだが、ご本人は最後のブラジル行きを覚悟して来伯した。
 「これを逃したらもうできない。最初で最後の講演会を」と思い、断られることを承知の上で講師を
 お願いした。妻の町枝さんはじめ周囲の人たちは「無理だよ。ちょっと考えさせて」と否定的だっ
 たのだが、牧場で元気を取り戻した小野田さんは、「いいよ、やりましょう」と快諾してくれた。
▼講演会直前に演壇に椅子を用意し「座って話してはどうか」と問いかけたら「そんな失礼なことは
 できない。椅子は必要ない」と一蹴。1時間以上にこやかな表情、で立ったまま講演を続けた。
 講演会は大盛況で終えたのだが、その2日後、小野田さんのブラジルの友人から帰国途中の乗り継ぎ地
 のニューヨークで体調を崩し、入院したという知らせが入った。電話をもらった時、絶句した。
 幸い事なきを得て、数日後に日本に帰国した話を聞き胸をなでおろした。
▼小野田さんは話し好きで一人で話し続ける。4年ほど前にサンパウロから日本まで同じ飛行機だった
 ことがある。記憶力が優れており、移住直後から付き合いのあった本紙記者のことや、コロニアの話を
 続け、最近東京に建てた自宅の話を事細かに説明してくれたことを思い出す。
▼そして80年代に会った時、イタイプー発電所ができたために、牧場周辺の気候が変わってしまったと嘆
 いた。環境保護の重要性に心を砕く人でもあった。
▼戦後69年、一つの時代が終わった。 合掌。(鈴)

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平成26年1月19日(日) 産経新聞 【ニューヨーク=黒沢潤】

「日本人の誇り喚起」 米紙が小野田寛郎さん称賛

米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は17日、フィリピン・ルバング島で30年間潜伏任務を続け16日
に死去した元陸軍少尉の小野田寛郎さんの評伝を掲載した。
評伝は小野田さんについて「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じてい
た誇りを喚起した」と指摘。「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだった
かもしれないが、日本人には義務と忍耐(の尊さ)について知らしめた」と強調した。
小野田さんがフィリピンのマルコス大統領(当時)に1974年3月、投降の印として軍刀を手渡したとき
「多くの者にとっては格式のある、古いサムライのようだった」と形容した。
また、小野田さんの出征前の日本は「紙と木からなる牧歌的な地」だったが、約30年を経て帰国した
母国は「高層ビルやテレビ、ジェット機などがある未来型の世界」へと変貌を遂げていたと指摘した。
一方、米紙ワシントン・ポスト(電子版)も同日「彼は戦争が引き起こした破壊的状況から、経済大国へ
と移行する国家にとって骨董のような存在になっていた忍耐、恭順、犠牲といった戦前の価値を体現し
た人物だった」と論評。多くの軍人は「処刑への恐怖」から潜伏生活を続けたが、小野田さんは任務
に忠実であり続けたがゆえに「(多くの人々の)心を揺さぶった」と讃えた。

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2014年1月18日 CNN(東京)

小野田寛郎さんが死去 終戦信じず30年間戦い続ける

第2次世界大戦が続いていると信じ、終戦後フィリピンのジャングルに30年間近く潜んで任務を続けた
元陸軍少尉、小野田寛郎さんが16日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。91歳だった。
小野田さんは、1944年にフィリピン西部のルバング島に諜報活動を行うために派遣された。
戦争終盤に連合軍がフィリピンで日本軍を破ったが、小野田さんは拘束を逃れた。
米軍が次々と押し寄せる中、ルバング島にいた日本兵の大半は撤退か降伏をしたが、小野田さんは数人
の仲間とともにジャングルに潜伏し、終戦を告げるメッセージを信じなかった。
その後29年間、ジャングルで集めた食料や盗んだ農作物を食べて生き延びていたが、仲間たちが次々と
この世を去り、小野田さんは1974年についに潜伏をやめ姿を現した。
そして小野田さんの元指揮官がルバング島で小野田さんと面会し、小野田さんの任務が解除されたこと
を告げた。ぼろぼろの軍服姿の小野田さんは、終戦から30年近くたってようやく自分の剣を引き渡した。
小野田さんは当時のインタビューの中で、日本兵は誰もが死ぬ覚悟を持っているが、自分は諜報員として
死なずにゲリラ戦を続けるよう命じられたと述べ、さらに兵士である以上、命令に従う必要があったと
付け加えた。
小野田さんは74年に帰国したが、75年にブラジルに移住し牧場を開設した。
84年にはルバング島のジャングルで習得したサバイバルやキャンピング技術を日本の子供たちに伝え
るために、小野田自然塾を立ち上げた。

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2014年1月17日 産経ニュース

小野田寛郎さん死去
終戦知らずルバング島30年間任務続行


戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなど
を養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎さんが、16日午後04時29分、肺炎のため都内の病院で
死去したことが17日分かった。91歳だった。葬儀・告別式は親族のみで行う。
後日お別れの会を開く予定。遺族らによると、体調を崩して6日から入院していたという。
大正11年、和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ、昭和19年に諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後
情報将校としてフィリピンへ派遣。20年の終戦後も任務解除の命令が届かず、ルバング島の密林にこもっ
て戦闘を続け、49年3月に任務解除命令を受けて帰国した。50年にはブラジルへ移住し牧場を開業。
平成元年には小野田自然塾を開設し、ルバング島での経験を基に、キャンプ生活を通した野外活動などで
ボランティアの育成などに尽力した。近年は都内で生活し、国内各地で講演を行っていた。

■高度成長下「敬礼」に衝撃
戦後30年近くにわたってルバング島の密林にこもって戦闘を続けた小野田寛郎さんが、91歳で死去した。
元上官の任務解除命令を受けて昭和49年に投降した小野田さんは、現地で記者らの前に古びた軍服と戦闘
帽で現れ、直立不動のまま「敬礼」した。
この姿は高度経済成長を謳歌していた日本人に衝撃を与え、同年3月、日航特別機で帰国した際には、両親
をはじめ大勢の人が日の丸の小旗を手に出迎えた。
小野田さんがルバング島に渡ったのは、戦況が不利となっていた昭和19年12月。
陸軍中野学校二俣分校で秘密戦の訓練を受け「日本軍が負け、ルバング島が占領されても生き長らえて
後方攪乱し、日本軍が再上陸したときに残置諜者としてこれを誘導する」との密命を受けていた。
このため「上司の命令があるまで終戦はこない」と信じていた。
47年、フィリピン警察との撃ち合いで仲間の元陸軍一等兵、小塚金七さんを失い1人で山中に逃げたこと
から日本政府が救援に乗り出した。
帰国後は、ルバング島の経験を生かし全国各地で「自然塾」を開いた。キャンプ生活を通じて子供たち
に自然の大切さや知恵を教え、平成元年、福島県に小野田自然塾を整備した。
平成17年に、戦後60年の終戦記念日の本紙企画で、ジャーナリストの櫻井よしこさんと対談した際は、行き
すぎた利己主義を懸念し、「他人がまったく目に入っていないような感じがします。日本の今の人たちに
信義があるのか、とも感じています」と、国の行く末を案じていた。

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2014年1月17日 The Voice of Russia(「ロシアの声」)より

「最後の日本兵」小野田氏がなぜロシアで感動を呼ぶのか

日本の敗戦後、フィリピンのルソン島で30年もパルチザンとして生活を続けた小野田寛郎さんが91歳で
亡くなった。

「小野田さんは、おそらく、日本人兵士としては世界で一番名の知れた人物だっただろう。
勇敢さ、兵士としての忍耐強さの手本だった。この人は百年たっても語り継がれるだろう」

これは数年前、ロシア語のあるサイトに載せられた一文だ。
大体、ロシアでは小野田さんについては大きな新聞もふくめ、本当に色んなところで書きたてられた。
そして、そうした文章は殆どいつも尊敬の念がこめられ、感激に満ちたものだった。
また、小野田さん以外の日本兵で東南アジアのジャングルのなかに何十年も潜み、司令官の命令を守り
続けた人々に対しても同じように、ソ連人は感動を表したものだった。
20世紀、2度も日本と戦った経験を持つロシアが、これだけ感動したことも何も驚くことはない。
兵士としての義務に忠誠を誓う姿勢は、ロシアでは常に最も重要度の高い美徳とされてきたもので
ロシア帝国でもソ連でも青少年に教え込もうとされてきたことだった。
アジアのジャングルの中で日本兵が相次いで見つかり、その人たちが第2次大戦が終わったことを知ら
なかった、または信じようとしなかったことがソ連のプレスで紹介されると、多くのロシア人は1941年
に書かれた『誠実な言葉』というソ連時代の有名な話を思い起こした。
その話は単純なものだった。夜遅く、作者はペテルブルグの中心にある庭園で職員の小屋に小さな男の
子を見つける。もう遅いのに、この子はどうしても家にかえろうとはしない。何故なら、ここで他の子
たちと戦争ごっこをしていたときに、自分の持ち場を離れないということを誓ったからだ。
ところが約束をさせた子どもらは、さっさとそのことを忘れて家に帰ってしまった。この子だけは、家に
帰ることができない。それは約束をしたからだった。この話を聞いた後、作者は通りで少佐をみつけ、
この子に持ち場を離れて、家に帰るよう命じてもらう。
ソ連時代この話は、小学校低学年の児童の必須図書だった。おそらく、誰もこの話に無関心ではいられな
かっただろう。この話も、その後の小野田さんの話しと同じだったからだ。

ここで、ロシアのサイトやブログに掲載された小野田さんの話への反響をご紹介しよう。
・アンドレイ・クリロヴィチ
 でも彼自身はこれを英雄的行為とはとらえていない。彼は言われた命令を遂行しつづけた。
 これは日本では当たり前のことだ。この経験から学ばねばならない。
・アレクサンドル・ショルヴァエフ
 インタビューの答えがよかった。「私は日本が強く、繁栄することを願って戦った。
 そして今ここに来て、やはり日本は本当に強く、繁栄した国だった」ということは、彼の戦いは
 無駄ではなかったんだ。
・エレンジェン・ジュカエフ
 本当に強い人だ。ものすごく強い…。本当の意味で自分の祖国の正真正銘の兵士だったんだ。
・アレクセイ・アソノフ
 小野田さんのために東京都心で銅像をたてなければ。これこそ自分の国のまことの愛国者だ!

(上記コメントはhttp://vk.com/club1649025#/topic-1649025_2128788から引用)

アンドレイ・イワノフ

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訃報 小野田寛郎さん91歳=戦後も比の山中に29年 毎日新聞



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