忘れまじ「二日市保養所」のこと
毎年、この時期になるとマスコミやメディアが、戦後○○年として「終戦特集」みたいなものをやります。ほんの数年前まで、私は、そういった特集記事や番組を見て殆ど疑問に感じることがありませんでした。
「日本軍は勝てる見込みのない戦争に突き進んだ」「侵略戦争をした日本が悪かった」、だから未だに反省し続けなければいけない・・・という自虐的な内容にもかかわらず、それを受け入れていたのです。戦後教育による歴史観を疑うことなく生きてきたのです。とはいえ、心の片隅では「祖父や同朋たちが、そんなに酷い人間だったとは思えない」という疑問符があったのは確かで、納得できないものがありました。不勉強ゆえの無知に気付いてから、今まで毛嫌いして殆ど手にすることのなかった書籍や雑誌を読むようになり、その度に「恥ずかしながら、こんな事も知らなかったのか…」「こんな事実が有ったとは…」と驚きの連続で、それこそ、学んでも学んでも追いつきません。
そんな戦後史の中に、「二日市保養所」という忘れてはならない悲惨な史実があります。敗戦後、博多港に着いた引揚者で、旧満州などでソ連兵や支那人・朝鮮人らに強姦され、妊娠した女性たちの堕胎手術がここで行われた、ということです。地元の近くの事なのに、旧筑紫駅の銃撃のことは知っていても、このことについて全く知りませんでした。
戦後の混乱期でもあり、日本政府がまともに機能していなかったこともあり、被害者女性達への対応は非人道的でもあり、不十分なものであったろうことは想像に難くありません。それを現在の価値観で非難したり糾弾することは、当時、懸命に処置にあたってくれた医師や看護婦さんたちの行為を、貶めることになるとともに、被害者女性の屈辱と無念の想いを、踏みにじることになるのではないでしょうか。
侵略戦争と自衛戦争は表裏一体であり、国々の立場によって異なります。加害者でもあり、また被害者でもあるのです。「日本が悪かった」と一方的に責められる不条理に、子々孫々、未来永劫、耐え続けなければいけないのでしょうか…?
本土無差別縦断爆撃や、広島・長崎への原子爆弾投下による大量虐殺をおこなった米国=連合国は、本当に正義なのでしょうか…?
そんな事を思いながら、二日市保養所跡の母子像に手を合わせてきました。
< 二日市保養所母子像堂外観 >
< 二日市保養所母子像 >
< 二日市保養所石碑の裏面にある銅版 >
この石碑裏面の銅版には以下のように記されています。
建立趣旨 福岡市 児島教三
昭和二十一・二年の頃、博多港には毎日のように満州からの引揚船が入っていた。
その中に不幸にしてソ連兵に犯されて妊娠している婦女子の多いことを知った旧京城帝国大学医学部関係の医師達は、これら女性を此処 -旧陸軍病院二日市保養所- に連れてきて善処した。
この事実を千田夏光氏のルポ『二日市・堕胎医病院』(晩聲社刊)で知った私は、堕胎が当時法律で禁止されていることを知りつつ職を賭して行った彼等の人道行為は後世に伝えらるべきであると思いこの碑を建てた。
そして今は夫々の家郷で平穏な日々を送っておられるであろう彼女たちが三十数年を経た今日、この地を訪れて往時の先生や看護婦さんに感謝の意を伝えたい時、この碑がそのよすがとなればと念じている。
昭和五十六年三月
福岡市博多区堅粕四丁目 平藤権 刻字
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終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ
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■ NHK戦争関連番組『証言記録/市民たちの戦争』より
吉田ハルヨさん(京城日赤看護学校)の証言
Q:吉田さんは二日市の保養所では何をされていたんですか。
看護婦の仕事。二日市の保養所は、博多の港に船が着くでしょう。そして、問診て、言葉かけの診療があるんですね。それで、問診によっておなかの大きい女の人がたくさん出てきたのよね。
そういう人をそのままふるさとに帰すわけにいかないので、二日市の保養所で、ハシヅメ先生といったかな婦人科の先生は。厚生省の働きで始めたんだけどね。堕ろす施設ができたの。 堕ろすの、赤ちゃんを。海軍の保養所だったの、戦争中は。海軍の軍人て船の中ばっかりにいるから、陸に上がったときはそういう保養所で保養させないと精神的にまいるみたいね。
海軍の保養所が福岡県の二日市温泉という温泉があるんだけれど、その二日市に厚生省の保養所としてあったし、今もあるよ。そこを日赤が堕ろすための施設として使ったの。
Q:どうして堕胎するんですか。
どうしてって、そのまま帰ったら誰の子かわからん子を、ふるさとというか自分のふるさとに帰って育てていかないといけない。そんな育てるような余裕ないでしょう。みんな着のみ着のままで逃げて帰った人は、その子どうやって育てるお金もないのに。その人が生きるための手段として堕ろした。誰の子かわからないでしょう、強姦されたら。逃げて帰る途中で強姦されているんだから。北朝鮮からソウルまでは歩いて帰らないとね。輸送してくれないんだから自力で帰らないと。お金もないし、歩いて帰らないと。ソウルに来たら南朝鮮だからアメリカ軍が何とかしてくれたわけよね。ソウルから北はロシアだから何にもしてくれない。
Q:初めてその女性たちを見たとき、どんな様子で、どう思いましたか。
物言わない。とにかくね、黙ってる。物言わない。二日市の保養所ね、海軍の保養所だから個室もあって大部屋もあって、わたしたちは大部屋で暮らしていたようだけど、その人たちは辱めを受けて堕ろしてつらいね。わたしも、堕ろすなんていうことも知らないでしょう、まだ18~19でね。わからないでしょう。ただ、かわいそうに、かわいそうにと思うのよ。そんなに暴れなかったね。暴れる体力も気力も、打ちひしがれて。普通なら、「あんたどこでどうだった、ああだ」って、普通なら話すじゃない、普通の生活してたら。みんなが無口。つらーい目にあってるから。そうよ、そうですよ。みんな未婚の若い、そんな経験生まれて初めて。
自分から好んでやったパンパンとは違うからね。犯されて、連れ去られて、もう物言えない。涙も出ない。「何が起こったの、わたし。わたし、これ何。これわたし?」というような、そんな感じ。知らないけど、その経験ないからわかんないけど。じゃないかと思うよ。年いった人は、「わたしは大変な目にあったんだ」とか思ったかもしれないね。でも、若い子は何が何やら訳わからん。ねぇ。と思うよ。
それから、二日市の保養所に運ぶまで、物言わないんだもの、皆。一言も。バスなんかないからトラックで運ぶのよ。二日市の保養所までぎゅうぎゅう詰めでね。物言わないの。辛いつらい思いしてここで堕ろした人たちは、一言も物も言わず、言わないのよ。泣き声も出さず、堕ろすとき、今よりは麻酔薬も効き目の薄い麻酔薬だったと思う。戦後だから。今はもう痛くないような麻酔薬あるんでしょうけど、わたしは手術したことないからわかんないけどね。戦後だもの。日本の国が医薬品どころか鉄砲の弾も持ってないような時代に、痛み止めの注射薬なんかなかったでしょうね、あんまり。それがね、ぎゃーぎゃー泣く人いなかったから。それくらい辛い思いして逃げて帰ってきたんだと思うよ。
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2008年8月10日 読売新聞より
二日市保養所跡
◆「堕胎、鬼になるしか」 元看護師証言、助産師ら「事実に向き合う」
赤みがかった髪をした胎児の遺体は、桜の木の根元に埋められたという。
「生きたくても、生きられなかった命をたくさん見てきた」。筑紫野市の元看護師、村石正子さん(82)は、敗戦後、旧満州(現中国東北部)などで当時のソ連兵らに強姦されて妊娠した女性たちに堕胎手術を行っていた「二日市保養所」(筑紫野市)に勤務していた。極秘の施設だったため正確な資料が残っていないが、戦後約1年半で少なくとも200人以上が手術を受けたとされる。村石さんのように、この施設について口を開く関係者は少ない。悲惨な歴史を風化させてはならないと、助産師らがこの夏、保養所での事実を語り継ぐ活動を始めた。保養所跡には、慈愛に満ちた表情で乳児を抱く母親の像がひっそりと立っている。1982年、保養所跡に開設された病院の院長らによって建立された。
7月下旬。母子像前で、葬られた胎児や手術の失敗で亡くなった女性たちを供養する法要が営まれた。主催したのは福岡市の助産師、平田喜代美さん(66)と田川市出身の画家、大友慶次さん(68)(東京都)。村石さんも含めた約15人は、読経が響くなか、汗もぬぐわず、一心に手を合わせた。
母乳育児を支援する活動を約30年間続けている平田さんは6月、福岡市で個展を開いていた大友さんと知り合った時、この事実を聞いた。
「命の誕生にかかわる助産師こそ、事実に向き合い、次世代に伝えなければ」と思った。母子愛をテーマに書画を描いている大友さんは、田川市で過ごした子供時代、九州大病院の医師だった叔父から知らされて以来、いつか自らの手で供養したいと思い続けてきたという。
「麻酔はなく、激しい痛みに耐える女性の手を握るのは、看護師の役目だった」。法要後、村石さんが切り出した。女と分からないよう、坊主頭に男性の服を着た女性たちが、トラックの荷台から次々に降りてきた。やせこけているのに、おなかだけがせりだした姿に、何度も絶句したという。
医師や助産師が手術を担い、妊娠間もない場合は、子宮に器具を入れてかき出した。4か月を過ぎていたら、陣痛促進剤を使ってすぐに出産させ、メスで赤ちゃんの命を奪ったという。
「違法行為だったが、女たちの人生を守るために必要なことだった。鬼になるしかなかった」「助産師は命をはぐくむ役割を担っているが、ひとたび戦争が起こると、命を奪う立場にもなりうることを知った。助産師はもちろん、若い母親たちにも伝えていきたい」と平田さん。9月、助産師たちが村石さんの体験を聞く場を作るつもりだ。
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2006年8月読売新聞九州版より
二日市保養所。 入り口脇には「厚生省博多引揚援護局保養所」の看板がかかっていた。
(福岡市総合図書館所蔵「博多引揚援護局史」より)
「不幸なるご婦人方へ至急ご注意」。
満州や朝鮮半島から博多港に向かう引き揚げ船では、こんな呼びかけで始まるビラが配られた。
「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり、そのため体に異常を感じつつある方は、診療所へ収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」。全文を読んでも、どのような治療を行うのか明示されていなかったが、ソ連の兵隊などの暴行で妊娠していた女性には見当が付いた。
中絶手術。優生保護法が1948年に成立するまで、原則、違法とされた手術だった。ビラを配ったのは京城帝大医学部の医師たちのグループ。このグループは終戦後の朝鮮半島で日本人の治療に当たっていたが、殆どは45年12月頃に帰国。
引き揚げ者の治療を続けるため、外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、グループ全体を「在外同胞援護会救療部」に衣替え。46年2月、博多港に近い日本最古の禅寺「聖福寺」に、診療所「聖福病院」を開設した。帝大医学部の医師たちが、なぜ、違法な手術を決断したのか。
きっかけは暴行されて妊娠した1人の教え子の死だったという。このグループの一員で、京城女子師範学校で講師も務めた医師は、引き揚げてきた教え子と久々に再会した。しかし、話しかけても泣くばかり。両親から、「ソ連兵に暴行されて妊娠した」と打ち明けられた医師は、グループの他の医師と相談して中絶手術に踏み切ったが手術は失敗し、女性も胎児も死亡した。すでに博多港に着きながら、暴行されて妊娠していることを苦にした別の女性が、海に飛び込んで自殺する事件も起きていた。外国人との間に生まれたとすぐにわかる子供を連れた母親が1人で故郷に帰り、新しい生活を始めることは極めて難しい時代。医師たちは、目立たない場所に別の診療所を作り、ひそかに中絶手術を行って故郷に帰そうと考えた。
医師らから提案を受けた厚生省博多引揚援護局は、福岡県と交渉し、同県筑紫野市・二日市温泉の一角にあった広さ約420平方メートルの木造2階の建物を借り上げた。旧愛国婦人会の保養所で、博多港から車で約40分。交通の便は良く、浴室にいつも温泉がわいている建物は医療施設としても好都合で、医師たちは医療器具を持ち込み、46年3月「二日市保養所」を開設した。厚生省が違法な手術を行う医療機関開設に踏み切った背景について、当時、聖福病院に勤務していた元職員は「妊娠は、暴行という国際的に違法な行為が原因。国は目をつぶって超法規的措置を取ったのだろう」と推測する。
特別養護老人ホームわきの水子地蔵の前で、今年5月14日に行われた「水子供養祭」
(福岡県筑紫野市で)
◆恨みと怒りの声、手術室に響く
引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、数日間の休養の後、手術室に通された。麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。医師が、長いはさみのような器具を体内に挿入して胎児をつかみ出す。
「生身をこそげ取るわけだから、それはそれは、痛かったでしょう」。看護師として手術に立ち会った村石正子さん(80)(同)は、硬い表情で思い返す。ほとんどの女性は歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうなほど強く握りしめて激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。
「ちくしょう」---。手術室に響いたのは、痛みを訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。
お腹が大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。「泣き声を聞かせると母性本能が出てしまう」と、母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。
幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。陣痛促進剤を飲んで分娩室にいた女性が、急に産気づいた。食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、声を上げさせないために首を手で絞めながら女児を膿盆(のうぼん)に受けた。白い肌に赤い髪、長い指---。ソ連(当時)の兵隊の子供だと一目でわかった。医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分娩室の隅に置いた。食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。「ネコが鳴いているのかな」と思ったが、はっと思い当たった。分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、膿盆の中で弱々しい泣き声をあげていた。村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、もう一本頭頂部にメスを突き立てた。女児の息が止まった。
死亡した胎児の処理は、看護師のなかで最も若かった吉田はる代さん(78)(埼玉県川口市)らの仕事だった。手術が終わると庭の深い穴に落とし薄く土をかぶせた。
手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。会話もなく、横になっているだけ。大半は目をつぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、他の人も見ないようにしていたのでしょう」と振り返る。女性たちは1週間ほどで退院していった。村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら薄く口紅を引いて送り出した。
中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、400~500人にのぼると見られる。1947年7月に設立された済生会二日市病院は、二日市保養所の建物の一部を共同で使用していた。設立当初の同病院に勤務していた島松圭輔さん(89)(筑紫野市)は、保養所の医師らと一緒に食事をしたこともあったが、仕事の話は一切出なかった。島松さんは、二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」と記憶している。一緒に食事をしたことがあった医師らの挨拶もなく、「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。
二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、水子地蔵の前で「水子供養祭」が行われている。今年の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、当時を思い出しながら、むせび泣いた。「私はこの手で子供の首を絞めたんです。60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません…」
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