筑紫の国の片隅で…

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祝!! ホークス日本一‼

ソフトバンクが3年ぶり日本一に 秋山監督有終の美

    ホークス日本一


10月30日 朝日 ホークス 日本一
(朝日新聞デジタルより)




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岡崎久彦氏が逝去

10月26日、元駐タイ大使で外交評論家の岡崎久彦氏が逝去されました。
心よりご冥福をお祈りいたします。

安倍晋三fbより


10月28日 産経 岡崎久彦氏死去


平成26年10月28日 産経新聞より

【評伝】外交評論家 岡崎久彦

岡崎久彦元駐タイ大使

知性と気迫備えた侍

エレガントなサムライ-それが岡崎さんだった。社交の場ではほほえみを浮かべながら、歩み寄ってくる相手の話にじっくり
と耳を傾け、穏やかな口調で的確なコメントを返す。「大使の社交とはかくあるべし」と思わせる振る舞いだった。
安倍晋三さんが自民党総裁に返り咲いた直後のことだ。評論家の金美齢さんのお宅でお祝いのパーティーが開かれたとき、
歩み寄ってきた安倍さんを笑顔で迎え、ゆったりと談笑する姿が強く印象に残っている。岡崎さんには、周りの者が教えを請
いたくなるようなオーラが確かにあった。
民主党が政権の座にあったとき、同党若手国会議員の要請でキッシンジャーの『外交』全31章を読み解く勉強会の講師を
務めた。20世紀の米国外交を知る上で欠かせぬ文献の監訳者である岡崎さんが直々に講義するとあって、自民党からも
多数の若手が参加した。月1回のペースで開かれた勉強会は8カ月続き、講義録はただちに『二十一世紀をいかに生き抜
くか』というタイトルでPHP研究所から出版された。同書は外交戦略を考える者にとって必読の書である。
岡崎さんというと知性の人という印象が強いが、日本を危うくするものに対してはいかなる批判も恐れることなく、言論で戦
いを挑む気迫を持っていた。
そのよい例が遊就館の反米展示を批判した平成18年8月24日の産経新聞「正論」欄の文章である。

《戦時経済により、アメリカが不況の影響から最終的に脱却したことは客観的な事実であろうが、それを意図的
にやったなどという史観に対しては、私はまさに(米保守派論客のジョージ・)ウイル氏が使ったと同じような表現
-歴史判断として未熟、一方的な、安っぽく、知性のモラルを欠いた、等々の表現-しか使いようがない》

と、米国が不況脱却のために資源の乏しい日本を経済制裁によって戦争に追い込み、これにより米経済は回復したという
史観を批判した。その上で、

《私は遊就館が、問題の個所を撤去するよう求める…この安っぽい歴史観は靖国の尊厳を傷つけるものである。
私は真剣である。この展示を続けるならば、私は靖国をかばえなくなるとまであえて言う》

と強い覚悟を示した。この文章が保守陣営、特に反米保守といわれる人々に与えた衝撃は計り知れなかった。
(桑原聡)

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2014年10月27日20時36分 朝日新聞デジタルより

岡崎久彦・元駐タイ大使が死去 安倍首相の外交ブレーン

元駐タイ大使で、外交評論家の岡崎久彦(おかざき ひさひこ)さんが26日、死去した。84歳だった。
通夜、葬儀は近親者のみで行う。喪主は妻昭子さん。後日、しのぶ会を開く予定。
1952年に外務省入省。同省情報調査局長や駐サウジアラビア大使、駐タイ大使を歴任し、92年に
辞職後は「親米保守」の論客として知られた。
同省調査企画部長だった83年に、歴史を踏まえた国家戦略論を説いた著書「戦略的思考とは何か」
がベストセラーとなり、テレビの討論番組などにも数多く出演した。
2004年には当時、自民党幹事長だった安倍晋三首相と共著「この国を守る決意」を出版した。
安倍首相の外交政策のブレーンを務め、第1次、第2次安倍政権で、首相の私的諮問機関「安全保障
の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)のメンバーを務め、集団的自衛権の行使容認
に道を開く報告書をまとめた。

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平成26年7月5日 産経ニュースより

「新3要件」譲りすぎではない 元駐タイ大使・岡崎久彦氏

新たな「武力の行使」の新3要件は、譲りすぎたために動かないのではないかという説がある。だが、私はそう思わない。
この3要件でいいと思っている。
日本に自衛権があるというのは、(昭和34年の)「砂川事件」判決が、集団的自衛権か個別的自衛権かを区別せずに
認めている。また、自衛権は必要最小限度でなければならないが、これまで必要最小限度の線を集団的自衛権と個別
的自衛権の間で引いてきた。これは法理論的にむちゃくちゃな話だ。新たな3要件は、正当防衛と過剰防衛に線を引い
ている。必要最小限度を定義する正攻法だ。鉄砲を1発撃つことは、場合によっては国家の命運にかかわる。
どんな場合でも首相の決断を仰ぎ、首相は国家の命運を考えて、最終決断を下さなければいけない。
キューバ危機のケネディ米大統領も、フォークランド紛争のサッチャー英首相もそうだったが、本当に国家の安危なのか
判断しなくてはならない。3要件のこの表現であっても、本当に国家の安危にかかわるなら、何でもできる。
平成2(1990)年にイラクのフセイン大統領(当時)がクウェートを占領した。そのころは日米経済摩擦がひどいときで、
米国内では日本は同盟国ではないという意見が強かった。そんなときに日本が自衛隊を出さずに、中国が出兵したら、
アジアにおける米国のパートナーは日本ではなく、中国となってしまう。日米安全保障条約は吹っ飛び、日本の安全を根
底から覆す。
今回の閣議決定ならば、あのときも自衛隊を出せるだろう。いざという場合に、国の安全が根底から覆るかどうかを考え
て、首相が決定すればいい。防衛出動が下令されれば、軍事力を使えるが、それ以外の場合はほとんど使えない。警察
と同じだ。それを直さなければいけない。その作業が今年の秋にある。
米国の冗談だが、泥棒が逃げようとしているときに、米国の警察官は「止まらなければ拳銃を撃つぞ」と警告する。だが
日本の警察官はそう言わない。「止まらなければ、もう一度、『止まれ』と言うぞ」と言うだけだ。その場合に泥棒に向かっ
て拳銃を撃てるように法律を変えるのが今度の目的だ。

【プロフィル】
岡崎久彦(おかざき ひさひこ)昭和5年、大連出身。東大在学中に外交官試験に合格、27年に外務省入省。
情報調査局長、駐サウジアラビア大使、駐タイ大使などを務める。政府の「安全保障の法的基盤の再構築に
関する懇談会」のメンバー。現在、NPO法人岡崎研究所所長。84歳。
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平成26年7月2日 産経ニュース 【正論】

苦節35年、集団的自衛権の時がきた 元駐タイ日本大使・岡崎久彦

ついに集団的自衛権の行使容認が閣議決定された。35年間、待ちに待った決定である。
私が防衛庁に勤務していた1980年ごろ、ソ連艦隊はベトナムのカムラン湾に基地を構えて、南シナ海の航行を脅かし
た。イラン・イラク戦争が勃発して、ペルシャ湾の航行も脅かされていた。この日本にとって死活的な重要性のある、東京
湾からペルシャ湾までのオイルルートの防衛は米国第7艦隊の任務だった。

《石油ルート哨戒に加われず》
それは楽な勤務ではなかった。甲板上は昼は40~50度となり、当時の船の冷房では、夜もろくに気温は下がらず、ゆっ
くり眠って体を休めることもできなかった。当時来訪した横須賀基地の米軍司令官は私に訴えた。
「そういう辛い任務をしていると、来る船来る船日本のタンカーだ。私には日本の政治事情は分かるが、水兵たちには分
からない。どうして日本の海上自衛隊はパトロールに参加しないのだと不平が収まらない。そういう状況だということだ
けは分かってほしい」と。しかし、海上自衛隊はパトロールに参加できなかった。自分の艦は守れても、一緒に行動してい
る米艦は守れない。また、日本の船は守れても、米国やアジア諸国の船は守れない。さらに、日本の船なるものがない。
ほとんどがリベリア船籍かパナマ船籍である。それを守れるかと法制局に聞けば、集団的自衛権行使の疑いがあると言
われてしまう。当時の解釈ではそれでおしまいだった。
奇妙なことに、今回の集団的自衛権論議の最中に、ここにあるような事例は事実上ほとんど解決されてしまった。
反対論は、何も集団的自衛権と言わなくても、個別的自衛権で解決できるではないかという議論が中心となった。
確かに日本にとって死活的な石油ラインを守るための米艦の防護であり、外国籍でも日章旗を掲げた船を守るためで
あるならば、個別的自衛権でもよいという拡大解釈はあり得る。従来の政府解釈を現実に即して変更するというのなら、
現在政府がとっている立場とほとんど同じであり、国民的総意は既にできているといってよい。

《海自の信頼回復と同盟強化》
いずれにしても、政府解釈の変更はもう決まったのだから日本はパトロールに参加できる。
ただ、具体的な武力行使となると場合によっては法律の整備が必要となる。関連法案提出は政府の公約であり、この秋
に整備されよう。ただ、その前でもパトロールには参加できるし、参加すべきである。
慎重を期せば、法的に問題のある武力行使は、法整備までは米側に任せておけばよい。参加するだけで抑止力になるし
、世界最高を誇る日本の哨戒能力だけでも参加の価値がある。何よりも、米軍とともに汗を流すことが同盟の絆を固め
る。これで、35年間失われていた海上自衛隊への信頼が回復し、日米同盟は強固になり、日本国民の安全がそれだけ
高まるのである。
私個人の感触では、それにとどまらない。もしあの時、海上自衛隊が常時パトロールに参加していたら、日本人の規律、
能力が抜群であることは誰の目にも明らかに映り、また、沿岸のアジア諸国にとって脅威となるような海軍でないことも
明らかになっていたであろう。東南アジアは、日本が戦後半世紀以上営々として経済、技術協力の面で貢献してきた金
城湯池であるにもかかわらず、日本は政治、軍事面では無能力者だとこの地域で思われてきたが、そのイメージを払拭
できる。

《「長い空白」急いで埋めよ》
そうなれば、日本、ドイツなどが国連安保理常任理事国入りを目指した2005年の安保理改革決議案(廃案)の共同提案
国として、ドイツの隣国のフランス、ベルギーが参加したのに対し、日本の近隣の中国、韓国はもとより東南アジア諸国連
合(ASEAN)10カ国までもが中国におびえて一国も名を連ねなかったという、国辱的な状態も避け得たと思う。
今月には安倍晋三首相のオーストラリア訪問があり、やがてモディ・インド首相の訪日がある。そして、年内には日米防衛
協力の指針(ガイドライン)の改定もある。集団的自衛権の政府解釈の確定によって、横須賀からインド洋に至る海上交通
路(シーレーン)の防衛について、豪、印、米と建設的に話し合えるのである。
米国はシェールガス・オイルの開発により、自身のエネルギー源確保のための湾岸地域の重要性が低下すると予想され
る。米国防費の伸び悩みもあり、同盟国の負担を求める声は高くなっても低くなることはないであろう。
全ての場合において、日本にとって死活的重要性のある石油ラインの防衛について、新たな国際協調に向かって進む
チャンスである。日米豪印の接触に際してシーレーンの防衛について、今すぐにでも、具体的協議に入るよう防衛当局者
に指示すべきである。 35年間の国益のタイムロスを埋めるのである。一刻も失う時間的余裕はない。




テーマ:訃報 - ジャンル:ニュース

ガダルカナル戦没者遺骨が帰還 その2

防衛省 海上自衛隊(Japan Maritime Self-Defense Force)fbより

10月24日 父親の帰りを待つ

平成26年10月24日(金)東京晴海埠頭にて、
「平成26年度遠洋練習航海部隊帰国行事」及び「遺骨引渡式」が、執り行われました。

10月24日 遺骨に対して着剣捧げ銃をする儀仗隊員
(遺骨に対して着剣捧げ銃をする儀仗隊)


10月24日 yamatotube2
海自練習艦隊帰国行事・ソロモン諸島御遺骨引渡式 戦没者遺骨送還事業に初の自衛隊参加





テキサス親父 グレンデール市議会で証言

テキサス親父がグレンデール市議会で、愛する日本と日本人擁護のために持論を展開し、謂れの無い日本叩きに対し
て反撃をしてくれました。
テキサス親父は10月21日(現地時間)、米国カリフォルニア州グレンデール市の市議会で意見を述べました。
テキサス親父は、事前に届け出ればグレンデール市民以外でも参加でき、誰でも意見を述べることができるパブリック
コメント制度を利用したそうです。
今まで在米日本人が慰安婦像についての反対意見を述べると、「もっと歴史を学ばなければ」「なぜ過ちを認めない」
などとヒステリックに反論していた市議らも、テキサス親父に対しては何も言わなかったようです。テキサス親父が話し
終えると、慰安婦像設置に賛成した市議らは「サンキュー」と述べ、唯一設置に反対した市議は、「あなたの名前は」と
改めて確認していました。(産経ニュースより抜粋)

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テキサス親父 グレンデール市議会証言


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2014年10月23日 zakzak(夕刊フジ)より

テキサス親父、米市議会で韓国系に反撃「米軍慰安婦像を設置したらどうか」

グレンデール市議会で

「テキサス親父」こと、米評論家のトニー・マラーノ氏が、慰安婦の像や碑の設置を続ける韓国系団体に、米国の市議会
で反撃を始めた。慰安婦像などの設置を「日本バッシング(叩き)ではない」とする米側の主張を逆手に取り、米軍相手
の慰安婦「ヤンコンジュ(洋公主=米軍慰安婦)」の像設置を要求したのだ。マラーノ氏一流の弁舌や論理展開に、米市
議会も沈黙するしかなかったようだ。
「日本人の名誉を毀損している。侮辱している」マラーノ氏は21日(日本時間22日)、カリフォルニア州グレンデール市
の市議会でこう言い切った。これは事前に届け出れば、誰でも市議会で意見を述べることができるパブリックコメント制
度を利用したもの。市民以外でも参加でき、これまで韓国系団体が日本バッシングに悪用してきた制度だ。
マラーノ氏はまず、「あなたたちの(慰安婦像を設置した)目的は尊い」と皮肉たっぷりで市議らを持ち上げて、こう続け
た。「最近、韓国で新しい慰安婦グループが『韓国政府に1950年から92年の間、強制的に慰安婦にさせられた』と言
っている。これはグレンデール市としては、日本や日本の人々に対して自分たちが一貫性があることを表明するチャンス
だ」。新しい慰安婦グループとは、朝鮮戦争の休戦後、在韓米軍基地近くの売春街で米兵相手の売春をしていた「ヤン
コンジュ」「基地村女性」と呼ばれた韓国人女性だ。このうち122人が今年6月、「韓国政府の厳しい管理下に置かれて
、人権を侵害された」として、朴槿恵大統領率いる韓国政府に国家賠償訴訟を起こしている。
マラーノ氏は続けた。「貴市は、今ある慰安婦像が『日本や日本人を差別したり、侮辱する目的で設置されたわけではな
い』と証明すべきだ。そのためには新しい慰安婦グループ(=米軍慰安婦)のための像を設置したらどうか。現在の像の
隣に、大理石の記念碑などを設置することを勧める」
韓国系団体は、慰安婦像や碑の設置目的を「反人権的行為が二度と起きないよう、米国と世界に平和の重要性を訴え
る」「慰安婦の追悼」などと主張している。同市議会はこれに賛同して設置を認めたのだから、マラーノ氏としては、公平
を期して、米国と直接関係がある米軍慰安婦の像を設置することを同市議会に求めたわけだ。
米軍慰安婦の像を設置するプランは、夕刊フジの連載「痛快! テキサス親父」で、アパグループの元谷外志雄代表と
特別対談した際、マラーノ氏が初めて披露(7月3日発行)していた。
同市の市立公園に設置された慰安婦像の隣には、「20万人の女性が」「日本軍に強制的に慰安婦にされ」「セックス・
スレイブ(性奴隷)として」などと説明する碑がある。これは韓国側の一方的かつ、事実と異なる主張であり、朝日新聞が
大誤報と認めて取り消した吉田清治氏の「強制連行」証言などが基本となっている。
これまで、在米日本人らの反対意見に過敏に反論してきた市議らも、マラーノ氏独特の話し方や論理展開にうなったの
か、黙って聞いていた。そして、話を聞き終えると「サンキュー」と語ったという。
市議会での発言を終えたマラーノ氏は、夕刊フジの取材に対し、「グレンデール市議たちは、米軍慰安婦のことを知らな
かったのではないか。ただ、私が伝えた以上、米軍慰安婦の像を設置しなければ、現在ある像が『日本バッシング』だと
証明することになる。新たな像を建てるか、事実無根の『20万人の女性』『セックス・スレイブ』といった碑文を修正する
かだ。この問題は今後もフォローしていく。風化させない」と語っている。


2014年10月23日KAZUYA Channel


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米国カリフォルニア州における慰安婦像設置に関する動静について、在米ジャーナリスト高濱賛氏のレポートをいくつか
紹介しておきます。


2014年10月22日 zakzakより
カリフォルニア慰安婦像設置 在留邦人と福井市が反対に動く
米ロサンゼルス郊外に位置する人口約13万5000人のカリフォルニア州(以下、加州)フラトン市で、日韓の代理戦争
が過熱している。全米各地に慰安婦像を建ててきた韓国系反日団体「加州韓国系米国人フォーラム(KAFC)」が進め
る市立博物館内の「平和モニュメント」設置の動きが最終局面を迎えているのだ。
在米ジャーナリストの高濱賛氏がレポートする。
市議会に提出された計画書によると、「平和モニュメント」は在ソウル日本大使館前に建てられた慰安婦像のレプリカで
ある。すでに市議会では8月19日に設置を認める決定がなされ、市立博物館の理事会で設置の是非を最終決定する予
定だ。理事会は、有識者ら21人からなる博物館の最高意思決定機関で、設置案が可決されればすぐに設置に動く構え
を見せている。同市は人口の11.5%を韓国系が占めており、設置反対派は苦戦しているが、在米邦人側にも新しい動き
がある。同市に永住を決めた日本出身者が「トゥルー・ジャパン・ネットワーク(TJN)」という団体を結成し、設置反対の
署名や草の根の啓蒙活動を行なっている。TJNの代表は在米30年の今村照美氏。日系の運輸会社で25年勤めたキャ
リアウーマンだ。
「(韓国系が)慰安婦問題を女性の人権問題だというなら、やはり女性が前面に出なければならないと思ってTJNを立
ち上げました。フラトンを“第2のグレンデール”にしてはなりません。
これまでに9200人(日本からは8000人、米国内1200人)の反対署名を集め、市議会の公聴会にも積極的に参加し
て、日本の主張を訴えています。ですが韓国側も韓国系教会や病院などを舞台に署名活動を活発化させています」


2014年10月21・23日 NEWSポスト(週刊ポスト2014年10月31日号)より
在米ジャーナリスト・高濱賛氏レポート

◇米カリフォルニアで慰安婦像レプリカ設置の動きが最終局面に
日韓関係が悪化の一途をたどる中、米ロサンゼルス郊外に位置する人口約13万5000人のカリフォルニア州(以下、
加州)フラトン市で日韓の代理戦争が過熱している。
全米各地に慰安婦像を建ててきた韓国系反日団体「加州韓国系米国人フォーラム(KAFC)」が進める市立博物館内
の「平和モニュメント」設置の動きが最終局面を迎えているのだ。
「平和モニュメント」という名称だが、市議会に提出された計画書によると、それは在ソウル日本大使館前に建てられた
慰安婦像のレプリカである。碑のプレートには「20万人の女性を強制連行し、性奴隷にした」との文字が刻まれる予定
になっている。すでに市議会では8月19日に設置を認める決定がなされており、残るは市立博物館の理事会で設置の
是非が最終決定される。
理事会は有識者ら21人からなる博物館の最高意思決定機関で、設置案が可決されればKAFC側はすぐに設置に動く
構えを見せている。KAFCがフラトン市を慰安婦像運動の“標的”にしたのには理由がある。
同市はもともと畜産やオレンジ栽培を主要産業とするが、1990年代後半から移民法改正に伴って永住権を獲得した韓
国人が親類縁者を呼び寄せ、現在は人口の11.5%にあたる約1万5500人が韓国系となっている。
同市最大の教育機関である加州立大フラトン校は全学生の22%がアジア系(米国籍、留学生を含む)、そのうち半分は
韓国系(同)といわれている。繁華街にはハングルの看板が立ち並ぶコリアンタウンが形成されている。
6人の市議(この中から輪番制で市長が選ばれる)にとって韓国系市民の票は生命線だ。博物館理事会にも韓国系の
理事が2人いる。一方の日系(米国生まれ、日本出身者を含む)は1260人(2010年米国勢調査)のマイノリティだ。
福井市と25年にわたる姉妹都市関係を結んでいるものの、在住者の多くはビジネス目的で慰安婦問題への関心は薄
い。しかも加州選出で日系のマイク・ホンダ下院議員が慰安婦像設置運動の旗振り役であるため、日系住民にもKAFC
支持派は少なくない。昨年7月、市議会の賛成のもとで慰安婦像が設置された加州グレンデール市と構図は同じだ。

◇慰安婦像設置に動く米加州の地元紙発行人 朝日の撤回は把握
朝日新聞の慰安婦虚報の最大の禍根の一つは、その嘘が世界各国で“真実”として広まってしまったことにある。
現在、佳境を迎えた米カリフォルニア州フラトン市での「慰安婦像設置」を巡る論争はその象徴である。
人口の11.5%を韓国系住民が占めるフラトン市。慰安婦像設置も韓国系住民が推進してきた。
だが、同市在住の日本人女性が設置反対の運動を始めたほか、堀之内秀久ロサンゼルス総領事は、チャーフィー市長
や市議、博物館理事、地元メディアと精力的に面談し、設置撤回を訴えた。そうした日本側の「反転攻勢」の背景には、
朝日新聞が慰安婦報道の虚報を認め、謝罪したことが影響している。
同時にそれは、一部とはいえ、フラトン市の「良識派」にも影響を与えた。不幸なことではあるが、慰安婦制度は第2次大
戦中、少なからぬ国に存在していた。日本が強制連行をしたという事実がなければ、慰安婦は日本だけの問題ではなく
なるからだ。
ジャーナリスト出身でフラトン市の唯一の地元紙「フラトン・オブザーバー」(月3回発行)の発行人を務めるシャロン・ケ
ネディ氏は、「朝日新聞が記事を撤回したことは把握しているし、その誤報に基づく情報が世界を駆け巡っていることも
理解している」と話したうえでこう続けた。「戦争の際に多くの女性が酷い目に遭ってきたことは許されない出来事だと
考えるが、それは特定の国や軍隊の問題ではなく、多くの国で起きた悲劇です。批判するのであればアメリカもまた多く
の恥ずかしいことをしてきたことを反省しなくてはなりません。女性への人権侵害に限らず、日系人の強制収容や黒人を
奴隷として強制的に働かせてきた歴史もある。そうしたことを正当化している一方で、他国(日本)だけを批判する資格
はないと思います」
同紙には興味深い寄稿も掲載された。加州立大フラトン校のビンス・バック名誉教授(政治学)が執筆した『本当は平
和を唱えていない平和モニュメント』(9月上旬号)と題した文章にはこうある。
「慰安婦像建立を求める団体(加州韓国系米国人フォーラム)のウェブサイトを見ると、『日本政府は謝罪せよ』という目
的に終始していて、女性の人権問題はそのための口実に過ぎない。下院決議121号(※注)を金科玉条のように主張す
るが、議会全体のコンセンサスではないし、ましてや、米国政府の公式見解でもない。この団体は、フラトン市を利用して
日本政府に圧力をかけることが狙いであることは明白だ」
そうした米国知識人の意見、そして強制連行の根拠となった朝日報道が虚報となった事実を、フラトンの推進派はどの
程度理解しているのか。像の設置案に賛成したチャーフィー市長や市議、そして博物館理事に見解を求めるべく直撃し
たが、締め切りまでに回答は得られなかった。

【※注】
慰安婦に対する日本政府の謝罪を要求する米下院の決議案。
慰安婦が強制連行されたという前提のもとで決議された。法的拘束力はなく、米政府の公式見解
でもないが、在米の韓国系団体が慰安婦像設置を各自治体に求める際の根拠にされている。

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2014年10月24日 zakzak(夕刊フジ)より

三原じゅん子氏「ハワイでも慰安婦像の動き」 自民が名誉回復に「特命委」設置
朝日新聞による慰安婦問題の大誤報を受け、日本政府は、国連人権委員会のクマラスワミ報告の一部撤回を
申し入れるなど、具体的に動き出した。
自民党も「日本の名誉を回復するための特命委員会」(委員長・中曽根弘文元外相)を月内に設置する。
同党の三原じゅん子女性局長が委員会への意気込みと、米ハワイでの韓国系団体の謀略などについて語った。
「朝日が30年以上も放置した吉田清治氏の『慰安婦を強制連行した』という虚偽証言のせいで、日本と日本人
はいわれなき屈辱を受けてきました。その汚名を返上するためにも、委員会で大いに活動したい」
三原氏はこう語る。朝日は虚偽報道を撤回し、大誤報を検証する第三者委員会を今月発足させたが、三原氏は
「まったく足りない」といい、こう続ける。「私は日本ハワイ友好議員連のメンバーとして、今年8月にハワイを訪問
しました。そこで現地の政治家から、韓国系団体がハワイにも慰安婦の碑や像を建てようとしていたことを聞かさ
れました」
ハワイには、日本の状況を理解する親日派の政治家が多いため、設置を食い止めたという。
「日本とハワイの政治家の間には長年築き上げてきた友好関係があります。この信頼関係は容易に突き崩される
ものではありません。しかし、米本土では韓国系団体による虚偽の流布にどんどん浸食されています。油断は禁物
です」。日本人として、世界に真実を伝えたいというのが、三原氏の願いだ。
「安倍晋三首相は就任以来、さまざまな国を外遊されていますが、その都度、丁寧にこの件について説明されてい
るはずです。でも、安倍首相だけに頼らず、われわれも積極的に広報活動を行うべきです」
そのためには、吉田証言の虚偽を認めない韓国などに出向いて説明することや、クマラスワミ報告をまとめたスリ
ランカ出身の女性法律家、ラディカ・クマラスワミ氏に面会して、説得することも考えているという。
朝日の「反省」はいまだ十分なものではないが、日本政府や自民党は動き出している。
三原氏は「国際広報予算も、来年度概算要求で本年度の約2倍の52・2億円計上しています。菅義偉官房長官も
『日本の名誉回復を図るべく、これまで以上に戦略的に行いたい』と話している。私たちはそれを全力で支えていき
たい」と語った。 (ジャーナリスト・安積明子)








ガダルカナル戦没者遺骨が帰還

10月16日に紹介しました海上自衛隊の平成26年度遠洋練習航海部隊が24日午前、東京晴海埠頭に帰港しました。
9月19日にソロモン諸島ホニアラ港で練習艦「かしま」艦内に収容安置された137柱の英霊も、70年ぶりに祖国に帰還
されました。西村眞悟議員が「今まで、祖国において、このような敬意と栄誉礼を以て迎えられたことがあろうか」と言わ
れるように、外地で戦死した兵士が祖国に帰還する際には、軍隊が栄誉礼をもって迎えるのが世界の常識だというのに
、日本では今まで、自衛隊が栄誉礼をもって英霊を迎えるようなことはありませんでした。
今回、練習艦隊とはいえ日章旗を翻した艦船で祖国に帰還され、海上自衛隊の栄誉礼を以て迎えられたのは、戦後に
おいて初めての事例なのです。

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平成26年10月25日産経新聞

10月25日 産経 戦没者遺骨 帰還

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2014年10月24日 産経WESTより

70年の時を経て「堂々」初の艦隊帰還
…「ガダルカナル戦没者遺骨」かつては飛行機の貨物室だった

第二次大戦の激戦地、ガダルカナル島(ソロモン諸島)で昨年夏以降に収容された戦没者137人分の遺骨を乗せた海
上自衛隊の練習艦隊が24日、東京・晴海埠頭に帰港した。遺族ら78人が70年以上を経て帰国した遺骨を出迎えた。
政府が実施する遺骨収集事業で海自の艦艇が日本に送る初めての事例。政府主導で帰還を推進するモデルケースと
して注目を集めていた。
晴海埠頭での引き渡し式では、遺骨が海自の儀仗隊に栄誉礼で迎えられた後、海自側から厚生労働省の担当者に引
き渡された。今後、身元が確認されない遺骨は、千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京)に納められる。
遺骨は9月19日にソロモン諸島の首都ホニアラに寄港した海自艦隊に引き渡された。ガダルカナル島で収集に携わり、
この日出迎えた「ガ島未送還遺骨情報収集活動自主派遣隊」の崎津寛光隊長(42)は、「今までは飛行機の貨物室だ
った。今回、このように艦隊で正式に堂々とご帰還いただけることを喜ばしく思う。国として気持ちを表すことができた」と
話した。

御遺骨を運ぶ厚労省職員

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2014年(平成26年)10月24日 NHKニュースより

ソロモン諸島の戦没者遺骨 東京で引き渡し
南太平洋のソロモン諸島で新たに見つかった戦没者137人の遺骨が海上自衛隊の船で日本に運ばれ、東京の晴海ふ
頭で厚生労働省に引き渡されました。24日、遺骨の引き渡し式が行われ、遺族や厚生労働省の職員などおよそ300人
が参列しました。
ソロモン諸島で行われた今年の遺骨収集では合わせて137人の遺骨が見つかり、現地近くで練習航海をしていた海上
自衛隊の練習艦「かしま」で日本に運ばれました。
式では遺骨を納めた箱が海上自衛隊の隊員から厚生労働省の職員に引き渡されたあと、全員で黙祷を奉げました。
遺骨には身元の確認につながる手がかりはないということで、厚生労働省の霊安室にいったん安置されたあと、東京の
千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納められるということです。
ソロモン諸島などで戦死した人の遺族などでつくる「全国ソロモン会」の住田陸快副会長(72)は、「遺骨でもいいから
一刻も早く帰ってきてほしい。国は収集の態勢を整えてほしい」と話していました。
厚生労働省によりますと、戦後69年が過ぎた今も海外や小笠原諸島の硫黄島などにおよそ113万人の遺骨が残され
ていて、収集をどう進めていくかが課題となっています。

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2014年10月24日 毎日新聞東京夕刊より

遺骨を海自が輸送 ガダルカナルなど、海外戦没者初
第二次世界大戦の激戦地となった、南太平洋・ソロモン諸島のガダルカナル島などで収容され、海上自衛隊の遠洋練
習航海部隊の艦艇で運ばれた日本人戦没者137柱の遺骨が24日、東京・晴海ふ頭に到着し、海自から厚生労働省に
引き渡された。海外戦没者の遺骨を自衛隊が輸送するのは初めて。
厚労省によると、遺骨は同省が今年9月にソロモン諸島へ送った派遣団が収容した。通常は派遣団が空路で持ち帰る
が、今回は海自幹部候補生の実習中だった同部隊が、同時期にソロモン諸島の首都・ホニアラに寄港したことから、同
省が防衛省に協力を依頼した。
晴海ふ頭で行われた引き渡し式では、遺骨の入った箱を抱えて練習艦「かしま」から下りてきた海自隊員10人を、海自
儀仗隊が敬礼で出迎え、参列した遺族らが黙祷して献花した。
参列した永岡桂子副厚労相は「今後とも防衛省などと協力して取り組んでいきたい」と述べた。
厚労省によると、約240万人に上る海外戦没者のうち約113万柱が未帰還で、民間団体とともに各地で収集を進めて
いる。 【斎藤良太】

戦没者の遺骨を手に入場する自衛隊員

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2014年10月25日 朝日新聞

戦没者の遺骨、海自艦が輸送 海外激戦地の137柱
第2次世界大戦の激戦地、ガダルカナル島などソロモン諸島で収容された戦没者の遺骨137柱が、現地から海上自衛
隊の練習艦で運ばれ、24日に東京・晴海埠頭に到着した。
厚生労働省によると、海外戦没者の遺骨を自衛隊が輸送するのは初めて。輸送したのは遠洋練習航海部隊。
遺骨はいつもは民間機で運んでいる。今回は厚労省の派遣団が9月に遺骨を収容した際、近くを航行していた同部隊
に運んでもらいたいとの声が戦没者遺族から上がり、厚労省が防衛省に依頼したという。
海外の日本人戦没者(硫黄島など含む)は約240万人に上るが、収容できた遺骨は約127万柱。
自民党は遺骨収容を「国の責務」と明記する法案の議員立法を目指す。その中では厚労、外務、防衛相らの協力義務
を規定し、収容の加速化を図る考えだ。

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平成26年10月24日(金) 西村眞悟の時事通信より

ガダルカナルから英霊の御遺骨百三十七柱が帰国
本日、海上自衛隊の平成二十六年度遠洋練習航海部隊が、五ヶ月以上にわたる遠洋航海を終え、旗艦「かしま」以下
三隻の練習艦が午前九時に東京晴海埠頭に入港した。
この度の遠洋練習航海の画期的なことは、大東亜戦争の激戦地であったソロモン諸島ガダルカナル島の土に埋没して
いた戦没日本軍兵士百三十七柱の御遺骨を、ソロモン海域において旗艦「かしま」に安置して帰国の途につき、本日午
前十時半、東京晴海埠頭で厳かな儀式のうちに厚生労働省遺体安置室に引き渡したことである。今まで、何度となく、
大東亜戦争において、外地に斃れたまま放置されていた戦没兵士の御遺骨が日本本土に帰ってきた。しかし、全て御遺
骨は民間の飛行機や船で日本に運ばれ、日本では厚労省職員がそれを受け取っていた。そこに、自衛隊の関与と自衛
隊員の姿はなかった。
外地で斃れた兵士達は、全て国家の命令により戦地に赴き、戦闘状態のまま兵士として戦死している。このような兵士
の御遺骨が祖国に帰還する時には、軍隊がそれを栄誉礼を以て出迎えるのが世界の常識である。
ところが、我が国においては、英霊の御遺骨を軍隊(自衛隊)が武人に対する敬意を以て迎えることはなかったのであ
る。よって、この度、御遺骨百三十七柱が、ソロモン海域から帝国海軍と同じ軍艦旗と日の丸を掲げた護衛艦により祖国
日本に運ばれ、海上自衛隊の栄誉礼を以て迎えられてから厚労省に引き渡されたことは、当たり前のことながら、戦後
初めてのことで、まさに、画期的なのである。 (中略)
午前十時三十分、「かしま」の前部タラップから十数個の御遺骨の入った白い箱がそれぞれ十数人の水兵に抱かれて、
静かに埠頭におりてきた。その時、軍楽隊は「海ゆかば」を演奏しはじめ、その演奏は、白い箱が儀仗兵の前で栄誉礼を
受け終わるまで続けられた。栄誉礼が終わると、水兵が白い箱を厚労省職員に渡し、厚労省職員はその箱を「かしま」
の前に設置された祭壇に置いた。来賓と遺族が、その箱が置かれた祭壇に黄色い菊を献花した。
再び軍楽隊の「海ゆかば」の演奏のなか、白い箱が厚生省職員によって安置所に向かうためにバスに運ばれ、埠頭か
ら離れていった。
御遺骨の入った白い箱が、「海ゆかば」が響くなかを、静かにゆっくりと軍艦からでてきて埠頭に向かうとき、言いしれぬ
思いに襲われ、涙が流れ出るのをこらえた。後に、来賓席の後方でカメラを構えていた親しいカメラマンが言った。
「泣きながら、カメラを持っていましたよ、みんな泣いていましたよ」
戦後六十九年、外地の戦場で斃れた兵士達は、未だ百万人以上も外地の土の中に放置されたままだ。また、幸いにも
身内のいる祖国に帰った御遺骨においても、今まで、祖国において、このような敬意と栄誉礼を以て迎えられたことがあ
ろうか。本日は、ささやかな帰還式であったが、実に画期的であったのだ。(後略)



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両軍入り乱れての胴上げに感動

10月20日、CSステージ第6戦でホークスがファイターズに勝利して、日本シリーズ進出を決めました。
今年のホークスは、ペナントレースにしてもCSにしても、ぎりぎり土壇場で決めるという、ハラハラドキドキを味あわせて
くれました。ホークスファンとしては、本当にヤキモキさせられて疲れました・・・。それだけに“喜びもひとしお”というとこ
ろですが、勝利の感動とは別の、記憶に残る爽やかな感動も味あわせてくれました。

≪まさかのサプライズに、日本ハム・稲葉は号泣した。試合後、左翼席のファンにあいさつを済ませると、
ソフトバンクのナインも駆け寄ってきた。両軍入り乱れての胴上げ。5度宙を舞った。
「一緒に戦ってきた相手からも胴上げしてもらって、うれしかった。(ソフトバンク)ファンも“稲葉コール”
で応援してくれて、素晴らしい野球人生を送れた」 (10月20日 スポニチより) ≫

両チームから胴上げされる稲葉篤紀

2年前のCSステージの最終戦を思い出した野球ファンも多かったのではないでしょうか・・・。

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2014年10月21日The Huffington Post(ハフィントンポスト)より

日ハム・稲葉篤紀、敵チームからも胴上げされ涙で現役生活を終える

10月20日、プロ野球パ・リーグのクライマックスシリーズ(CS)ファイナルステージ第6戦が行われ、ソフトバンクが
4−1で日ハムを下し、日本シリーズ進出を決めた。
日ハムのベテラン外野手、稲葉篤紀(42)は今シーズン限りでの引退を表明しており、現役最後の試合となった。
試合後、自らのチームだけでなく、敵チームのソフトバンクの選手からも胴上げされた。
この話には、伏線がある。2年前の同じ舞台、CSファイナルで日ハムがソフトバンクを下した後のこと。その試合限り
で引退となる、ソフトバンクのスター選手、小久保裕紀に駆け寄って花束を渡したのが稲葉、その人だった。(中略)
小久保と稲葉。名選手が名選手を送り、そしてまた送られる…。2年の時を超えて試合後の球場に両チームの思い
が胴上げとなって現れた。

2014年10月20日 PacificLeagueMovie
両軍から感謝の胴上げ!稲葉と金子が宙に舞う


2012年10月19日 PacificLeagueMovie
お疲れ様です小久保選手!! 両チーム選手で小久保を胴上げ!!


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2014年10月20日スポニチより

ハム終戦もサプライズ 両軍で稲葉胴上げ「素晴らしい野球人生」

パ・リーグCSファイナルS第6戦 日本ハム1―4ソフトバンク (10月20日 ヤフオクD)

まさかのサプライズに、日本ハム・稲葉は号泣した。試合後、左翼席のファンにあいさつを済ませると、ソフトバンクのナイ
ンも駆け寄ってきた。両軍入り乱れての胴上げ。5度宙を舞った。
「一緒に戦ってきた相手からも胴上げしてもらって、うれしかった。(ソフトバンク)ファンも“稲葉コール”で応援してくれて
、素晴らしい野球人生を送れた」

「稲葉ジャンプ」で迎えられた最後の打席は4点を追う9回。先頭で代打出場し「三振でもいい。悔いのないスイングをし
よう」と臨んだ。
サファテの151キロ直球を強振し、捕邪飛に倒れた。ポストシーズンを含めてプロ通算2275試合、8653打席目だった。
「これで全てが終わったと感じたが、最後まで下を向くのはやめようと思った」。
チームは1点を返し、なおも2死一、二塁と攻め立てた。反撃はここまでだったが、後輩の諦めない姿勢に「涙が出そうだ
った。こらえ切れない」とベンチ裏に下がり、誰にも見られない場所で涙をぬぐった。
日本シリーズに進出し、本拠地の札幌ドームでファンに再び勇姿を見せることはできなかった。だが、CSで流れを変える
一打を放つなど、最後まで存在感を示した。
自身のモットーにたとえ「全力疾走した20年間だった」と感慨深げに振り返った。今後はアドバイザー的な立場で球団
に籍を置きながら、評論家活動も行う。
「もう一度、ユニホームを着るのは僕の夢。何年後になるか分からないが、ファンの皆さんとグラウンドで会えるまで野球
を勉強したい」。
20年間の現役生活を終えた42歳はそう言って静かにバットを置いた。



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本日は「地久節」の日

                    
                       菊のご紋


                皇后陛下お誕生日 ご近影

10月20日、皇后陛下におかせられましては、満八十歳(傘寿)のお誕生日を迎えあそばされます。
日本国民として心より慶祝を申し上げるとともに、皇后陛下の御健康、御長寿、御皇室の弥栄を祈念申し上げます。
天皇、皇后両陛下におかせられましては、国民が辛い時、苦しい時、悲しい時、いつ如何なる時も常にお心をお寄せ
になられ、国民の心の支えとなり、生きる希望と元気をお与えくださることに感謝せずにはおれません。

            皇后陛下お誕生日 ご近影00
         
******************************************************************************
宮内庁HPより
皇后陛下お誕生日に際し(平成26年)

皇后陛下 傘寿をお迎えになって
皇后陛下80年間のお歩みを記録したものです (貴重な映像も有りますので、ご覧になる事をお薦めします)。
http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg10653.html



宮内記者会の質問に対する文書ご回答

(問1)
このたび傘寿を迎えられたご感想とともに、これまでの八十年の歳月を振り返られてのお気持ちをお聞かせください。

皇后陛下
ものごころ付いてから、戦況が悪化する十歳頃までは、毎日をただただ日向で遊んでいたような記憶のみ強く、とりわけ
兄や年上のいとこ達のあとについて行った夏の海辺のことや、その人達が雑木林で夢中になっていた昆虫採集を倦き
ることなく眺めていたことなど、よく思い出します。また一人でいた時も、ぼんやりと見ていた庭の棕梠の木から急にとび
立った玉虫の鮮やかな色に驚いたり、ある日洗濯場に迷い込んできたオオミズアオの美しさに息をのんだことなど、その
頃私に強い印象を残したものは、何かしら自然界の生き物につながるものが多かったように思います。
その後に来た疎開先での日々は、それまでの閑かな暮らしからは想像も出来なかったものでしたが、この時期、都会か
ら急に移って来た子どもたちを受け入れ、保護して下さった地方の先生方のご苦労もどんなに大きなものであったかと
思います。
戦後の日本は、小学生の子どもにもさまざまな姿を見せ、少なからぬ感情の試練を受けました。終戦後もしばらく田舎に
とどまり、六年生の三学期に東京に戻りましたが、疎開中と戦後の三年近くの間に五度の転校を経験し、その都度進度
の違う教科についていくことがなかなか難しく、そうしたことから、私は何か自分が基礎になる学力を欠いているような
不安をその後も長く持ち続けて来ました。ずっと後になり、もう結婚後のことでしたが、やはり戦時下に育たれたのでしょ
うか、一女性の「知らぬこと多し母となりても」という下の句のある歌を新聞で見、ああ私だけではなかったのだと少しほ
っとし、作者を親しい人に感じました。
皇室に上がってからは、昭和天皇と香淳皇后にお見守り頂く中、今上陛下にさまざまにお導き頂き今日までまいりまし
た。長い昭和の時代を、多くの経験と共にお過ごしになられた昭和の両陛下からは、おそばに出ます度に多くの御教え
を頂きました。那須の夕方提灯に灯を入れ、子どもたちと共に、当時まだ東宮殿下でいらした陛下にお伴して附属邸前
の坂を降り、山百合の一杯咲く御用邸に伺った時のことを、この夏も同じ道を陛下と御一緒に歩き、懐かしみました。
いつまでも一緒にいられるように思っていた子どもたちも、一人ひとり配偶者を得、独立していきました。
それぞれ個性の違う子どもたちで、どの子どもも本当に愛しく、大切に育てましたが、私の力の足りなかったところも多く
、それでもそれぞれが、自分たちの努力でそれを補い、成長してくれたことは有難いことでした。
子育てを含め、家庭を守る立場と、自分に課された務めを果たす立場を両立させていくために、これまで多くの職員の
協力を得て来ています。社会の人々にも見守られ、支えられてまいりました。御手術後の陛下と、朝、葉山の町を歩いて
おりました時、うしろから来て気付かれたのでしょう、お勤めに出る途中らしい男性が少し先で車を止めて道を横切って
来られ、「陛下よろしかったですね」と明るく云い、また車に走っていかれました。しみじみとした幸せを味わいました。
多くの人々の祈りの中で、昨年陛下がお健やかに傘寿をお迎えになり、うれしゅうございました。
五十年以上にわたる御一緒の生活の中で、陛下は常に謙虚な方でいらっしゃり、また子どもたちや私を、時に厳しく、し
かしどのような時にも寛容に導いて下さり、私が今日まで来られたのは、このお蔭であったと思います。
八十年前、私に生を与えてくれた両親は既に世を去り、私は母の生きた齢を越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思
い出と共に、同じ朝「陛下と殿下の御心に添って生きるように」と諭してくれた父の言葉は、私にとり常に励ましであり指
針でした。これからもそうあり続けることと思います。

(問2)
皇后さまは天皇陛下と共に国内外で慰霊の旅を続けて来られました。
戦争を知らない世代が増えているなかで、来年戦後七十年を迎えることについて今のお気持ちをお聞かせ下さい。

皇后陛下
今年八月に欧州では第一次大戦開戦から百年の式典が行われました。第一次、第二次と二度の大戦を敵味方として
戦った国々の首脳が同じ場所に集い、共に未来の平和構築への思いを分かち合っている姿には胸を打たれるものがあ
りました。
私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出
来ません。まだ中学生で、戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく、従ってその時の感情は、戦犯個人
個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるというこ
とに対する、身の震うような怖れであったのだと思います。
戦後の日々、私が常に戦争や平和につき考えていたとは申せませんが、戦中戦後の記憶は、消し去るには強く、たしか
以前にもお話ししておりますが、私はその後、自分がある区切りの年齢に達する都度、戦時下をその同じ年齢で過ごした
人々がどんなであったろうか、と思いを巡らすことがよくありました。
まだ若い東宮妃であった頃、当時の東宮大夫から、著者が私にも目を通して欲しいと送って来られたという一冊の本を
見せられました。長くシベリアに抑留されていた人の歌集で、中でも、帰国への期待をつのらせる中、今年も早蕨が羊歯
になって春が過ぎていくという一首が特に悲しく、この時以来、抑留者や外地で終戦を迎えた開拓民のこと、その人たち
の引き揚げ後も続いた苦労等に、心を向けるようになりました。
最近新聞で、自らもハバロフスクで抑留生活を送った人が、十余年を費やしてシベリア抑留中の死者の名前、死亡場所
等、出来る限り正確な名簿を作り終えて亡くなった記事を読み、心を打たれました。戦争を経験した人や遺族それぞれ
の上に、長い戦後の日々があったことを改めて思います。
第二次大戦では、島々を含む日本本土でも百万に近い人が亡くなりました。又、信じられない数の民間の船が徴用され
、六万に及ぶ民間人の船員が、軍人や軍属、物資を運ぶ途上で船を沈められ亡くなっていることを、昭和四十六年に観
音崎で行われた慰霊祭で知り、その後陛下とご一緒に何度かその場所を訪ねました。戦後七十年の来年は、大勢の人
たちの戦中戦後に思いを致す年になろうと思います。
世界のいさかいの多くが、何らかの報復という形をとってくり返し行われて来た中で、わが国の遺族会が、一貫して平和
で戦争のない世界を願って活動を続けて来たことを尊く思っています。
遺族の人たちの、自らの辛い体験を通して生まれた悲願を成就させるためにも、今、平和の恩恵に与っている私たち皆
が、絶えず平和を志向し、国内外を問わず、争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を積み重ねていくことが大切
ではないかと考えています。

(問3)
皇后さまは音楽、絵画、詩など様々な芸術・文化に親しんで来られました。
皇后さまにとって芸術・文化はどのような意味を持ち、これまでどのようなお気持ちで触れてこられたのでしょうか。

皇后陛下
芸術-質問にある音楽や絵画、詩等-が自分にとりどのような意味を持つか、これまであまり考えたことがありませんで
した。「それに接したことにより、喜びや、驚きを与えられ、その後の自分の物の感じ方や考え方に、何らかの影響を与え
られてきたもの」と申せるでしょうか。子どもの頃、両親が自分たちの暮らしの許す範囲で芸術に親しみ、それを楽しんで
いる姿を見、私も少しずつ文学や芸術に触れたいという気持ちになったよう記憶いたします。
戦後、どちらかの親につれられ、限られた回数でも行くことの出来た日比谷公会堂での音楽会、丸善の売り場で、手に
とっては見入っていた美しい画集類、父の日当たりのよい書斎にあった本などが、私の芸術に対する関心のささやかな
出発点になっていたかと思います。
戦後長いこと、私の家では家族旅行の機会がなく、大学在学中か卒業後かに初めて、両親と妹、弟と共に京都に旅をす
る機会に恵まれました。しかし残念なことに、私は結婚まで奈良を知る機会を持ちません。
結婚後、長いことあこがれていた飛鳥、奈良の文化の跡を訪ねることが出来、古代歌謡や万葉の歌のふるさとに出会い
、歌に「山」と詠まれている、むしろ丘のような三山に驚いたり、背後のお山そのものが御神体である大神神社の深い静
けさや、御神社に所縁のある花鎮めの祭りに心引かれたりいたしました。学生時代に、思いがけず奈良国立文化財研究
所長の小林剛氏から、創元選書の「日本彫刻」を贈って頂き、「弥勒菩薩」や「阿修羅」、「日光菩薩」等の像や、東大寺
灯篭の装飾「楽天」等の写真を感動をもって見たことも、私がこの時代の文化に漠然とした親しみとあこがれを持った
一因であったかもしれません。
建造物や絵画、彫刻のように目に見える文化がある一方、ふとした折にこれは文化だ、と思わされる現象のようなものに
も興味をひかれます。昭和四十二年の初めての訪伯の折、それより約六十年前、ブラジルのサントス港に着いた日本移
民の秩序ある行動と、その後に見えて来た勤勉、正直といった資質が、かの地の人々に、日本人の持つ文化の表れとし
、驚きをもって受けとめられていたことを度々耳にしました。当時、遠く海を渡ったこれらの人々への敬意と感謝を覚える
とともに、異国からの移住者を受け入れ、直ちにその資質に着目し、これを評価する文化をすでに有していた大らかなブ
ラジル国民に対しても、深い敬愛の念を抱いたことでした。
それぞれの国が持つ文化の特徴は、自ずとその国を旅する者に感じられるものではないでしょうか。これまで訪れた国々
で、いずれも心はずむ文化との遭遇がありましたが、私は特に、ニエレレ大統領時代のタンザニアで、大統領は元より、
ザンジバルやアルーシャで出会った何人かの人から「私たちはまだ貧しいが、国民の間に格差が生じるより、皆して少し
ずつ豊かになっていきたい」という言葉を聞いた時の、胸が熱くなるような感動を忘れません。少なからぬ数の国民が信
念として持つ思いも、文化の一つの形ではないかと感じます。
東日本大震災の発生する何年も前から、釜石の中学校で津波に対する教育が継続して行われており、三年前、現実に
津波がこの市を襲った時、校庭にいた中学生が即座に山に向かって走り、全校の生徒がこれに従い、自らの生命を守り
ました。将来一人でも多くの人を災害から守るために、胸の痛むことですが、日本はこれまでの災害の経験一つ一つに
学び、しっかりとした防災の文化を築いていかなくてはならないと思います。
歓び事も多くありましたが、今年も又、集中豪雨や火山の噴火等、多くの痛ましい出来事がありました。犠牲者の冥福を
祈り、遺族の方々の深い悲しみと、未だ、行方の分からぬ犠牲者の身内の方々の心労をお察しいたします。又この同じ山
で、限りない困難に立ち向かい、救援や捜索に当たられた各県の関係者始め自衛隊、消防、警察、医療関係者、捜索の
結果を待つ遺族に終始寄り添われた保健師の方々に、感謝をこめ敬意を表します。

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この1年のご動静

皇后さまには、本日、満80歳の傘寿をお迎えになりました。
この1年も、陛下のご様子を注意深くお見守りになりながら、数多くのお務めを果たされました。
5月には頸椎症性神経根症による左肩から左腕にかけての強いお痛みのため、出席を予定していた文楽公演のご鑑
賞をお控えになりましたが、それ以外に御不例によるお務めのお取りやめはありませんでした。
この1年間、皇后さまとしてのお立場でお務めになったお仕事は314件、この他に新嘗祭のための献穀や、祭祀に当た
りお務めする賢所奉仕団及び通常の勤労奉仕団に対するお労ねぎらいのお出ましが61件
ありました。
また、御神事では、春季及び秋季の皇霊祭及び神殿祭の折に皇霊殿及び神殿に、また、昭憲皇太后百年式年祭の折に
は皇霊殿に参られています

東日本大震災の関係では、両陛下で今年3月に開催された3周年追悼式にご臨席。7月には宮城県南三陸町、気仙沼
市をご訪問になり、知事等から復興状況等についてのご説明をお聴きになったほか、南三陸町の商店街や気仙沼市の
魚市場をご視察になりました。また、この折に、登米市の国立療養所東北新生園をご訪問になり、霊安堂にご供花の後
入所者とご懇談になりました。ハンセン病療養所は全国14か所ありますが、両陛下は、このご訪問により、昭和43年の
国立療養所奄美和光園(鹿児島県奄美市)のご訪問に始まり、すべての療養所の入所者とお会いになったことになり
ます。東日本大震災に関しては、上記の他、被災した歴史文化資料の再生に取り組む活動を紹介する特別展や、復興
を支援するチャリティーコンサート、映画試写会等にも度々お出ましになりました。
地方へのお出ましは、すべて両陛下の行幸啓として、昨年10月、全国豊かな海づくり大会ご臨席のため熊本県をご訪
問、その折に国立のハンセン病療養所・菊池恵楓園で納骨堂にご供花なさり、入所者とご懇談になったほか、水俣病慰
霊碑にご供花なさり、水俣病資料館をご視察、水俣病の語り部から話をお聴きになりました。
今年3月には、昨年式年遷宮を終えた伊勢神宮をご参拝。5月には、全国植樹祭ご臨場のため新潟県にお出ましにな
り、平成16年に発生した新潟県中越地震の被害とその後の復興を伝える小千谷市のおぢや震災ミュージアムそなえ館
をご視察、また、見附市の葛巻地区ふるさとセンターで平成16年7月に発生した新潟・福島豪雨災害の復旧状況をお
聴きになり、刈谷田川防災公園で水害復旧状況をご視察になりました。
6月には神奈川県横浜市で開催の世界作業療法士連盟大会・日本作業療法学会の開会式及びレセプションにご臨席
になり、展示をご覧。また、学童疎開船対馬丸の犠牲者を慰霊されるため、沈没から今年で70年を迎える沖縄県を訪問
され、慰霊碑・小桜の塔にご供花、ご拝礼後、対馬丸記念館をご視察、遺族や生存者とご懇談。
10月には国民体育大会ご臨場のため陛下と長崎県をご訪問になり、その折に、来年戦後70年を迎えることから平和
公園でご供花なさり、恵の丘長崎原爆ホームをお訪ねになりました。長崎県行幸啓は当初は2泊3日のご予定でしたが
大型で強い台風19号が接近したため、関係者がその備えに専念できるようにとの両陛下のお考えから、2日目の開会
式ご臨席の後のご予定をお取りやめになり、還幸啓になりました。
都内の行幸啓としては、全国戦没者追悼式等の式典、国際生物学賞等の授賞式等に陛下と共に42回お出ましになり、
お一方では、全国赤十字大会、特別支援学校・旭出学園工芸展、東日本大震災復興支援関連行事等25回の行啓があ
りました。
昨年からお始めになった両陛下の私的ご旅行としては、5月に栃木県の渡良瀬遊水地と足尾銅山跡地をご訪問、鉱毒
水の下流域対策や鉱毒ガス、乱伐等による山林荒廃を再生するための植樹活動の様子等をお聴きになり、わたらせ渓
谷鐵道沿いの新緑を列車からお楽しみになりました。
また、9月には青森県をご訪問。東日本大震災により被害を受けた八戸港をご視察、復興状況につきご聴取になった後
、種差海岸をご散策、翌日は黒石市のリンゴ生産農家と青森県産業技術センターりんご研究所をご訪問になりました。
私的ご旅行を含む地方へのお出ましは、ご静養のための御用邸へのお出ましを除き、12府県25市4町1村でした。
また、宮殿や御所では、陛下と共に、文化勲章受章者及び文化功労者、各種大臣表彰受賞者、農林水産祭天皇杯受賞
者、人事院総裁賞受賞者、昭和34年の両陛下のご成婚を記念してハワイ在住日系人等が中心となって創設した皇太
子明仁親王奨学金の奨学生、シニア海外ボランティア及び日系社会シニアボランティア、日本学士院会員、日本芸術院
会員、ソチ冬季オリンピック・パラリンピック入賞選手及び役員等々、文化、福祉、産業、国際協力、学術、芸術、スポーツ
等の分野でその発展に貢献した数多くの人々にお会いになりました。
皇后さまお一方では、例年どおり、日本赤十字社の名誉総裁として、社長からその活動状況等についてお聴きになった
ほか、皇后さまが高校時代に作詞された「ねむの木の子守歌」の著作権を基に創設され、肢体不自由・重症心身障害
児/者の世話に当たる人を対象とする「ねむの木賞」の受賞者とお会いになりました。
こうしたご接見等は47回、このほか陛下とご一緒に御所でお受けになったご説明やご進講は54回でした。
外国との関係では、昨年11月から12月にかけ、陛下に随伴され一昨年に国交樹立60周年を迎えたインド国を国賓とし
てご訪問になりました。昭和35年に訪問されて以来53年ぶりのご再訪でした。デリー市では、歓迎式典、ムカジー大統
領閣下とのご会見、同大統領閣下主催の晩餐会に臨まれたほか、既に知り合われていたシン首相夫妻のお招きで、御
四方での親しい午餐会に臨まれました。このほか、市内のロディー庭園では、お迎えに出た地元市民や在留邦人大勢と
お会いになり、ネルー大学で日本語学科の授業をご視察、図書館で蔵書をご覧になり、学生や教授たちとお話しになり
ました。インド国際センターでは、日印関係の友好親善に功労のあったインド関係者とお会いになりました。その中には、
インドの政治的立場の問題から、ご訪問が取りやめとなった平成10年のIBBY(国際児童図書評議会)ニューデリー大
会での基調講演をお願いした当時の関係者も含まれておりました。(因みに、このニューデリー大会には「子供時代の読
書の思い出」と題する基調講演をビデオに収録して現地に送られ、責任をお果たしになりました。)次いで、日本人学校
では、児童による和太鼓演奏やよさこいソーラン踊りをご覧になり、大使公邸では、53年前のご訪問時に植樹された菩
提樹を大使館員や現地職員等とご覧になった後、在留邦人代表とのご接見や大使夫妻主催のレセプションに臨まれま
した。
初めてのご訪問となった南部タミル・ナド州の州都チェンナイでは、ロサイア州知事及びジャヤラリタ州首相とお会いに
なり、同知事主催の午餐会に臨まれました。また、カラクシェトラ芸術学院では南インドの伝統的な舞踊と音楽に触れら
れ、タミル・ナド障害者協会では、障害のある子供たちのリハビリと職業訓練の様子をご覧になりました。ギンディー国
立公園内の児童公園では多くの地元市民とお会いになり、その後、ご宿舎で在留邦人との茶会に臨まれました。
国賓の接遇としては、陛下と共に、3月にベトナム国主席閣下及び令夫人、4月には米国大統領閣下をお迎えになり、歓
迎行事、ご会見、宮中晩餐、お別れのご挨拶にお出ましになりました。また、スイス国大統領閣下及び令夫人、マーシャ
ル国大統領閣下及び令夫人、エストニア国大統領閣下及び令夫人と会見されたほか、ハンガリー国首相夫妻、トルコ
国首相夫妻、イスラエル国首相夫妻をご引見になりました。さらに、タイ国王女チュラポン殿下、ルクセンブルク国皇太
子同妃両殿下を御所でのご昼餐に、カタール国前首長妃モーザ殿下、ベルギー国王女マリア・ローラ殿下を御所での
お茶に、日本・アセアン特別首脳会議に出席する各国首脳夫妻14名を宮殿での茶会にお招きになりました。
在京の外交団との関係では、陛下とご一緒に着任後間もない15か国の大使夫妻をお茶に、着任後3年を経過した16
か国の大使夫妻を午餐にお招きになり、離任する13か国の大使夫妻をご引見になりました。日本から赴任する45か国
の全大使夫妻にも出発前にお会いになり、同様に帰国した51か国の大使夫妻をお茶に招いて任地の話をお聴きにな
りました。
今年6月8日に宜仁親王殿下が薨去され、両陛下はお悲しみのうちに5日間の喪に服され、ご遺族と悲しみを共にされ
ました。薨去の直後4回にわたり桂宮仮寓所及び赤坂東邸を訪問されたほか、斂葬の儀及び百日祭の儀の後に拝礼
のため豊島岡墓地に行幸啓になりました。
お年を召された三笠宮同妃両殿下、御歩行がややご不自由におなりになった常陸宮殿下のお上にいつもお気を配られ
、宮殿行事の折などにも細やかにご便宜を図っておられます。
今年のご養蚕は4月から始められ、恒例の行事を含め17回にわたり桑畑、野蚕室、御養蚕所等にお出でになり、野蚕の
山つけや収穫、桑つみ、ご給桑、わら蔟作り、上蔟、繭掻き、毛羽取り等の作業に当たられました。特に、今年は文化庁等
の行事として2月19日から4月5日まで、フランス国パリ日本文化会館で「蚕―皇室のご養蚕と古代裂、日仏絹の交流」
展が開催され、皇后さまのご養蚕のご様子と皇室の伝統文化が広く紹介されました。DVDの映像で皇后さまが蚕に直
に触れてご養蚕に携われるお姿に驚きの声が聞かれました。
皇后さまは、今も時に発症する頸椎症性神経根症による痛みや痺しびれ、おみ足の不具合などに辛抱強く対応されつ
つ、日々のお務めを果たしておられます。陛下のご様子を案じられながら、ご自身の健康管理にも侍医の意見を聴かれ
つつ注意を払っておられます。
両陛下とも、毎日6時にはご起床になり、ニュースをご覧になってから吹上御苑内を歩かれ、7時に朝食をお取りになる
ことを日課とされています。お仕事の合間に短時間でも読書をしたり、ピアノを弾かれたりされています。
8月には例年どおり軽井沢と草津にお出でになって、草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルに参加されるご
予定でしたが、広島県で大雨により多数の死者や行方不明者が出る災害が発生したことをお知りになり、お取りやめに
なりました。
お具合の良いときには、時折、陛下と短時間ですがテニスをご一緒にされます。御用邸へは、葉山御用邸に3回、那須御
用邸に1回お出ましになりました。

10月20日のお誕生日当日は、午前10時半から12時までは皇族方始め内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁判所長
官、閣僚、宮内庁職員等による祝賀を6回にわたりお受けになります。正午からは、皇族方始めとのご祝宴、午後からは
旧奉仕者による祝賀、元側近奉仕者等との茶会、母校の先生方やご進講者等との茶会が催されます。夕刻には敬宮さ
ま始め未成年の内親王、親王殿下方のご挨拶をお受けになり、夜にはお子さま方ご夫妻とお祝御膳を囲まれます。

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2014年(平成26年)10月20日[月曜日] NHKニュース
10月20日 NHK 皇后陛下傘寿

◇貴重な映像や写真を公開
宮内庁は、皇后さまが、80歳の誕生日を迎えられたことを受けて、ふだんは目にする機会のない公務や日常生活の様子を映像と写真で
公開しました。このうち映像では、皇后さまがお住まいの御所で、名誉総裁を務める日本赤十字社の社長らから活動について説明を受け
たり、障害がある子どもたちの教育や福祉に貢献した人たちと懇談されたりする場面が公開されました。
また、皇居の宮中三殿で、皇后さまが祭祀に臨まれる場面を撮影した貴重な映像もあります。去年8月、静養で訪れた群馬県で国際音楽
祭に参加し、コンサートホールでピアノの演奏を披露された時の映像や、ことし5月、天皇陛下との旅行で観光用のトロッコ列車に乗車さ
れた際の様子を車内から撮影した映像も見られます。このほか、皇居の畑で、ご一家で稲や粟(あわ)の種をまいたり収穫されたりする
様子も映されているほか、御所の庭で宮内庁の職員とぎんなんを拾ったりわらびやぜんまいを摘まれたりしている映像もあります。
一方、皇后さまが聖心女子大学時代に取得した中学校の英語の教員免許や、大学の卒業証書の写真のほか、幼稚園のときに作られた
工作の写真も公開されました。さらに、皇后さまが天皇陛下と初めて出会われた軽井沢でのテニス大会のトーナメント表を宮内庁が再現
した資料の写真もあります。宮内庁はこれらの映像や写真を基に、皇后さまの80年の歩みを振り返る1時間の映像を制作し、20日から
政府のインターネットテレビで公開しています。(URLは http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg10653.html )

◇皇后さまの80年の歩み
皇后さまは、昭和9年10月20日、正田英三郎さんと富美子さんの長女として誕生されました。
戦争が続く中で
幼少期を過ごし、戦後の復興期に青春時代を送られました。聖心女子大学では自治会長を務め、卒業した年の夏、軽井沢のテニスコート
で当時皇太子だった天皇陛下と出会い、24歳で結婚されました。一般の家庭から皇太子妃が選ばれたのは初めてで、皇后さまは時の人
となられ、ファッションは若い女性の間で大流行しました。結婚の祝賀パレードに50万人を超える人たちが詰めかけるなど多くの国民から
祝福を受けられました。天皇陛下と国内外で公務に励むとともに、3人のお子さまを手元で育て、新たな皇室像を示されました。
昭和天皇が崩御して天皇陛下が即位されると、54歳で皇后となられました。一貫して、災害の被災者や病気や差別に苦しむ人、障害のある
人など、社会で弱い立場にある人たちに心を寄せられてきました。
平成7年の阪神・淡路大震災では、皇后さまが被災地に持参されたスイセンの花が復興のシンボルとなりました。
東日本大震災では、被災から間もない時期から7週連続で東北3県などを回り、その後もたびたび被災地を訪ねて被災者を励まされていま
す。日本赤十字社の名誉総裁として医療や福祉の関係者をねぎらうとともに、数多くの福祉施設やハンセン病の療所などを訪れて入所者を
いたわられてきました。
障害者のスポーツにも高い関心を持ち、長野パラリンピックでは、選手の健闘をたたえるウエーブに参加されました。
皇后さまは、天皇陛下の即位10年にあたっての記者会見で、「困難な状況にある人々に心を寄せることは、私どもの務めであり、これからも
更に心を尽くして、この務めを果たしていかなければいけないと思っています」と述べられました。
皇后さまは、天皇陛下と共に全国各地に出かける一方で、去年、53年ぶりにインドを訪れるなど、これまでに56か国を訪ねて国際親善に尽
くされました。
また、天皇陛下と同様、先の大戦に向き合われてきました。戦後50年を迎えた平成7年には「慰霊の旅」に出かけ、被爆地広島と長崎、そして
地上戦が行われた沖縄などを訪ねられました。さらに、戦後60年には太平洋の激戦地サイパンを訪問。追い詰められた日本人が身を投げた
断崖で黙とうをささげられました。
皇后さまは、文学や音楽に造詣が深く、とりわけ児童文学に大きな関心を寄せ、絵本など児童図書の普及に取り組む人たちを後押しされてき
ました。平成14年には、児童図書の世界大会が開かれたスイスをお一人で訪問し、児童文学への思いを語られた講演が大きな反響を呼び
ました。
一方で皇室の伝統も大切に受け継ぎ、世の中の出来事や家族への思いを短歌で表現するとともに、明治以降、歴代の皇后が続けてきた皇居
での養蚕にも熱心に取り組まれてきました。

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2014年10月20日 産経ニュースより

皇族、首相らが宮殿でお祝いのあいさつ

80歳の誕生日を迎えられた皇后さまの祝賀行事が20日、皇居・宮殿で行われた。
午前は皇太子、秋篠宮両ご夫妻ら皇族が宮殿「梅の間」でお祝いのあいさつをされた。
これに先立ち、安倍晋三首相や閣僚、衆参両院議長らのほか、宮内庁の風岡典之長官ら幹部もそれぞれ宮殿を訪れて
祝意を伝えた。
閣僚のうち経産相を辞任した小渕優子氏は欠席したが、午後に法相を辞任した松島みどり氏は出席した。
午後は宮殿の小食堂「連翠」で、皇族や元皇族、親族が出席して祝宴を開催した。皇太子家の長女愛子さま、秋篠宮家
の次女佳子さま、長男悠仁さまの3人の孫が夕方、住まいの御所を訪ねてお祝いを述べる。
夜は皇太子、秋篠宮両ご夫妻や長女黒田清子さん夫妻が御所に集まり、両陛下を囲んで夕食を共にする。







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王滝小中学校の子供たち 感謝の歌声

御嶽山での今季の捜索活動打ち切りが決まり撤収する自衛隊員に対し、王滝小中学校の子供たちが「いつまでも」 「青葉」 「ビリーブ」
の3曲を合唱で披露し感謝の気持ちを伝えたそうです。

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2014年10月17日 14時16分
読売新聞

小中学生が感謝の歌「命がけの捜索ありがとう」

小中学生が感謝の歌

56人が死亡、7人が行方不明になった御嶽山(3,067メートル、長野・岐阜県境)の噴火で、捜索活動にあたった救助
隊員に対する感謝式が17日、麓の長野県王滝村の松原スポーツ公園で行われた。
式には、捜索が打ち切られた16日まで活動していた自衛隊、消防、関東管区機動隊などの約200人が参加。長野県の
阿部守一知事は、「過酷な状況の中、行方不明者の家族の思いに寄り添って活動をしてくれた」と述べた。式の前には、
王滝小中学校で、子供たちが歌を披露し、隊員に感謝の気持ちを伝えた。
陸上自衛隊の臨時駐車場となっていた王滝村立王滝小中学校のグラウンドで17日、児童生徒43人が、撤収の準備を
していた隊員へ感謝の気持ちを込めて、合唱曲「いつまでも」など3曲を披露した。
中学3年の女子生徒(15)らが発案した。整列した約40人の隊員を前に、女子生徒は「小さい頃から慣れ親しんだ御嶽
山は、私たちの心の古里。御嶽を愛した多くの方々が命を落として、悲しくて残念でたまらなかった。命がけの捜索、あり
がとうございました」とあいさつした。
会場に歌声が流れると、隊員らは目を閉じたり、涙を流したりしながら、聴き入っていた。陸自松本駐屯地(長野県松本
市)の第13普通科連隊所属の菅原利幸曹長(48)は「子供たちの歌声が、今までの苦労を全部忘れさせてくれました」
と笑顔だった。

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2014年10月17日15時44分
朝日新聞

御嶽山捜索に感謝、歌を贈る 隊員「胸がいっぱいに」

村立王滝小中学生から感謝の歌を贈られる

今季の捜索打ち切りが決まった御嶽山(長野・岐阜県境)のふもとで17日、自衛隊や警察、消防への感謝式が開かれ
た。整然と並んだ約300人の捜索隊員を前に、阿部守一長野県知事は「皆様方の活動をしっかりと胸に刻み、山の防
災対策や安全対策に全力を傾けていきたい」と話した。
式典の会場は、捜索隊や機材をヘリで頂上付近へ運ぶ拠点となった王滝村のスポーツ公園。阿部知事のほか、松本洋
平内閣府政務官や地元町村長らが参加し、先月27日の噴火から延べ約1万5千人が従事した災害救助活動への感謝
の言葉を述べた。
噴火では56人が死亡、7人が安否不明のままだ。捜索にあたった関東管区機動隊長野中隊の浅岡真・中隊長(42)は
「全員の下山を願うご家族の思いをかなえられず大変申し訳ない。捜索が再開されれば万全の態勢で臨み、最善の捜
索をする」と話した。
自衛隊員が滞在していた村立王滝小中学校では撤収作業が続くなか、児童生徒38人が隊員たちに3曲の歌を贈った。
中学3年の石井萌乃さん(15)は「たくさんの方が亡くなり、捜してくださった。感謝の気持ちを歌に込めました」。
隊員は「子どもたちの気持ちに胸がいっぱいになりました」と涙ぐんでいた。

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2014年10月17日13時36分
毎日新聞

「救助や捜索、ありがとう」王滝村で感謝式も

村立王滝小中学生の生徒から感謝の歌を贈られる自衛隊員たち=長野県王滝村

56人が犠牲になった御嶽山(長野・岐阜県境、3,067メートル)の噴火で、行方不明者7人の年内の捜索活動が打ち
切られたことを受け、自衛隊は17日朝、現地からの撤収を始めた。ふもとの長野県王滝村立王滝小・中学校の児童と
生徒計39人は、同校の校庭に車両などを置いていた自衛隊員たちに感謝の歌を贈った。
9月27日の噴火以降、約20日間にわたり救助・捜索活動を続けた自衛隊、消防、警察への感謝式も王滝村で開かれ
た。県災害対策本部長の阿部守一知事は、「降雪や凍結という山頂の過酷な状況での捜索は大変危険と判断した。
苦渋の選択だった」と捜索打ち切りを決めた経緯を隊員に説明した。「不明者家族の思いに寄り添い、最後の一人まで
発見するという強い思いで捜索にあたってもらった。心から感謝したい」と述べた。
王滝小・中学校の子どもたちは「ありがとうの気持ちを伝えたい」と歌3曲を自衛隊にプレゼント。歌を聴いた陸自松本
駐屯地の菅原利幸曹長(48)は「行方不明者を全員見つけられず無念の思いがあったが、感謝を伝えてもらい、たまら
なくうれしかった」と話した。 【松岡大地、稲垣衆史】

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2014年(平成26年)10月17日 NHKニュースより

長野県知事 捜索隊員をねぎらう

御嶽山の今年の捜索が16日で中止になったことを受けて、17日に麓の王滝村で、長野県の阿部知事らが行方不明者
の捜索にあたった隊員たちに対し、「過酷な環境の中、全力で活動してくれたことに心からお礼を申し上げたい」とねぎ
らいのことばをかけました。捜索活動で臨時のヘリポートとして使われた王滝村の公園には17日朝、警察や消防それに
自衛隊など200人余りが集まりました。
隊員たちを前に阿部知事は、「大変過酷な捜索救助のなか、ご家族の思いにしっかりと寄り添い全力で活動してくれた
ことに心からお礼を申し上げたい」とねぎらいのことばをかけました。
このあと阿部知事らは、隊員を乗せた車両に向かって一台ずつ頭を下げて「ありがとう」と言いながら見送りました。
戦後最悪の火山災害となった御嶽山の噴火では、警察や消防それに自衛隊から延べ1万5000人余りが投入されて捜
索が行われ、56人の死亡が確認されましたが、県の対策本部では7人の行方が分かっていないとしています。
長野県では、来年の春以降、噴火や雪解けの状況などを見ながら捜索再開の時期を判断することにしています。

◇官房長官「知事の判断を尊重」
菅官房長官は閣議のあとの記者会見で、「捜索活動の現場は、噴火活動や降灰、火山性ガス、さらに積雪もあり、気温
も氷点下と過酷な状況だ。命懸けで捜索活動を行っている消防や警察、自衛隊をはじめ、関係者の安全確保にも万全
を期さなければいけない状況であり、長野県知事が苦渋の判断をされたのだと思う。政府としては知事の判断を尊重し
これからもしっかりと協力、支援していきたい」と述べました。

◇防衛相「残念だが状況厳しい」
江渡防衛大臣は閣議のあと記者団に対し、「自衛隊は警察や消防と連携しながら延べおよそ7000人が捜索救助活動
に当たってきた。行方不明者がまだ7人いるなかで撤収せざるをえなくなったことは残念だが、冬に向かって山頂などの
状況が非常に厳しくなるなかで、自衛隊だけが活動を続けるわけにはいかない。春になったら、また自衛隊としても協力
していきたい」と述べました。

◇捜索に参加した警察官や消防隊員は
関東管区機動隊長野中隊の浅岡真中隊長は「ご家族への思いを果たそうとやってきたので、申し訳ない気持ちです。
視界が悪く火山灰などで常に安定しない状態で苦労したことが印象に残っている。初めての経験でしたが、今後も起こ
るという想定をもって訓練に当たりたい」と話していました。
また、長野市消防局の消防隊員の1人は「悔しいです。行方不明者全員を連れて帰りたかったです」と話していました。
岐阜県の消防隊員の1人は「行方不明者の人を助け出せず断腸の思いです」と話していました。


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*私的コメント*
新聞各社は自衛隊員を主とした内容を伝えていますが、NHKは警察・消防隊員の声は紹介しても、自衛隊員には言及
していません。意図的に外したとしか思えませんね。

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2014年10月17日 産経ニュースより

陸上自衛隊ヘリUH60JA 御嶽山噴火の救助で見せた「神業」

御嶽山山頂付近で救助活動をするUH60JAと自衛隊員ら=9月28日

9月27日に発生した御嶽山の噴火は、犠牲者が50人を超える戦後最悪の火山災害となった。
家族を失った人々の悲しみは想像を絶するが、自衛隊などによる懸命の救助活動で一命を取り留めた人も少なくない。
噴火翌日の28日、山頂付近で計23人を救助したのは、陸上自衛隊第12ヘリコプター隊の多用途ヘリUH60JAだ。
インターネット上では「自衛隊ヘリがみせた神業」と絶賛する声が相次いだ。「多用途」というだけあって、UH60の役割
は空中機動作戦や災害派遣など多岐にわたる。
平成16年の新潟県中越地震や、23年の東日本大震災にも投入された。そんな「修羅場」をかいくぐってきたUH60にと
っても、御嶽山での救助活動は難度を極めたという。
高度3000メートルでの救助活動は危険と背中合わせだ。標高が高ければそれだけ空気密度が低く、ホバリング(空中
停止)ではエンジン出力を限界近くまで上げなければならない。真冬であれば空気密度は濃いが、御岳山が噴火したの
は暑さが残る9月。こうした悪条件に加え、山頂付近ではあらゆる方向から突風が襲いかかる。強い風を受ければ墜落
しかねない環境下に置かれていた。また、ヘリは浮力を得るため、空気を下に送る。地表に近づけば降り積もった火山灰
が舞い上がりかねない。そうなれば視界が閉ざされ、救助活動は困難を極める。
これだけの厳しい条件下で任務を果たすことができたのはなぜか。UH60は、衛星利用測位システム(GPS)や航路を
維持させる慣性航法装置を装備しており、自機の位置を正確に把握できるからだ。航法気象レーダーにより雷雲などを
避けることも可能だ。エンジンに異物が混入しないための空気吸入口(エア・インレット)には特殊フィルターも備え付け
られており、火山灰であっても身を守れる。
陸自には、大量の人員と機材を運べるCH47がある。ただ重量はUH60の4.7倍になり、噴火直後は降り積もった火山
灰が飛散しやすく、離着陸は容易ではない。このため、CH47が御嶽山で活動を始めたのは、噴火から4日たった、10月
1日だった。UH60が自衛隊内で「最後のとりで」と呼ばれるのは、過酷な状況でも直ちに災害現場に飛び込むことがで
きるからだ。とはいえ、最後に求められるのはパイロットの技量になる。あるUH60パイロットは、「局地的な突風を予測し
てエンジン出力を調整するためには風を読むことが必要だ。木の揺れや火山灰の舞い方、機体の揺れなどを瞬時に判
断して突風に備えなければならない」と、操縦の難しさを説明する。
最新ハイテク機器を搭載したヘリコプターと熟練パイロットの勘。この2つのいずれかが欠けていたなら2次災害の危険
さえ十分にあったのだ。 (政治部 杉本康士)




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海自艦隊、フィリピンに

10月13日に共同通信が以下の記事を配信しました。
…………………………………………………………………………………………………………………………………
2014年10月13日 共同通信 【マニラ共同】
レイテ海戦70年で慰霊 海自艦隊、フィリピンに
海上自衛隊の練習艦隊(司令部・広島県呉市)が13日、フィリピンの首都マニラに入港した。
太平洋戦争で日本海軍の連合艦隊が壊滅したレイテ沖海戦から70年となるのを目前に控え、17日には戦場となった
海域で洋上慰霊祭を行う。
練習艦隊司令官の湯浅秀樹海将補は記者団に対し、この時期にフィリピンを訪れたのは意図的ではないとしながらも、
「(戦場海域を)航行して実習幹部に歴史を感じさせ、今後のことを考えさせる」と述べ歴史から学ぶことの意義を強調
した。 1944年10月下旬のレイテ沖海戦では戦艦「武蔵」が撃沈されるなど、連合艦隊は壊滅。
…………………………………………………………………………………………………………………………………

この記事だけを読むと、海上自衛隊の練習艦隊が洋上慰霊祭を行うために、わざわざフィリピンまで航海して行ったか
のような印象を与えます。そして湯浅司令官の、「この時期にフィリピンを訪れたのは意図的ではない」という言葉を敢え
て紹介し、何か特別な意図が有るかのような含みをもたせています。
マスコミは殆ど取り上げませんが、今回のマニラ寄港は、平成26年5月22日~10月24日までの156日間、総工程
約57,000kmに及ぶ海上自衛隊の遠洋練習航海で予定されていた最終寄港地です。
58回目となる今回は13カ国(15寄港地)を訪問する予定で、海上自衛隊第64期一般幹部候補生約170名(タイ王国
海軍少尉1名)を含む総員約720名が、練習艦隊(練習艦「かしま」「せとゆき」、護衛艦「あさぎり」)において厳しい訓
練に励んでいます。毎年おこなわれている遠洋練習航海は、諸外国訪問により幹部自衛官として必要な資質を育成し、
国際感覚を涵養すること、そして友好親善の増進を目的としているものだそうです。
この練習艦隊に対し、今回は特別な任務が与えられました。それは、ソロモン諸島ホニアラ港にて戦没者の遺骨を収容
することです。9月19日、137柱の遺骨が民間団体の「ガダルカナル島未送還遺骨情報収集活動自主派遣隊」より練習
艦隊に引き渡され、練習艦「かしま」艦内に安置されました。
9月20日ホニアラ出港後、ソロモン海海戦で散華された英霊を慰霊するための洋上慰霊祭を、練習艦隊の艦上におい
て執り行っています。レイテ沖海戦の洋上慰霊祭だけが目的ではないのです。

ガダルカナル島 海上自衛隊対する戦没者遺骨引渡式



平成26年9月20日 産経新聞
9月20日 産経新聞 戦没者遺骨 海自艦で帰還へ
19日、ホニアラ港で行われた引き渡し式には政府関係者や在留邦人ら約300人が出席。遺骨は、「海自儀仗隊」に
栄誉礼で迎えられた後、厚生労働省の派遣団と自主派遣隊のメンバーから海自側に引き渡された。
練習艦隊は初級幹部の遠洋練習航海のため、5月に日本を出航。10月24日に東京・晴海ふ頭に到着する予定だ。
日本の艦艇が同島に入港したのは、昭和18年2月7日の旧日本軍撤退以降初めて。
同島から生還した元陸軍軍曹で、自主派遣隊員の金泉潤子郎さん(95)=東京都板橋区=は「感無量。英霊も喜ん
でくれているはず」と涙ぐみながら話した。

9月19日 ソロモン諸島ホニアラ港にて 戦没者遺骨引渡式
9月19日 ソロモン諸島ホニアラ港にて 戦没者の遺骨引渡式02

9月19日 ソロモン諸島ホニアラ港にて 戦没者の遺骨引渡式03

9月19日 ソロモン諸島ホニアラ港にて 戦没者の遺骨引渡式04


2014年10月9日 宇都隆史参議院議員HPより

ガダルカナル島 海上自衛隊遠洋練習航海部隊に対する戦没者遺骨引渡式に出席しました。

日時:平成26年9月19日  場所:ソロモン諸島ガダルカナル島 ホニアラ港

政府及び自民党は、未だ外地に残されている先の大戦で戦死された陸海軍将兵の遺骨の、一日も早い祖国帰還に
向けて諸施策の実施を行っておりその一環として、この度海上自衛隊の遠洋練習航海艦隊が南太平洋海域の各地
に寄港するのにあわせ、ガダルカナル島にて自主派遣隊が収容した137柱のご遺骨を護衛艦に捧持して航海を共に
し、国内へと帰還する事業が行われました。
本事業は、戦後69年を経て初めて実現した、自衛隊の手によって旧陸海軍将兵の祖国帰還が行われたものであり、
自民党遺骨特命委員会の事務局長として宇都隆史も主導的役割を発揮すると共に、外務大臣政務官として現地を
訪れ、安倍内閣総理大臣の追悼文を代読致しました。

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~海上自衛隊HPより~

第58回 遠洋練習航海
5月22日 東京晴海出港
5月22日 東京晴海出港するTV3508「かしま」

TV-3518 「 せとゆき 」
TV3518「せとゆき」

DD151「あさぎり」
DD151「あさぎり」


アメリカ合衆国(パールハーバー、サンディエゴ)

6月3日 パールハーバー入港
6月3日 パールハーバー入港

6月3日 パールハーバー マキキ日本海軍基地にてボランティア活動
6月3日 パールハーバー マキキ日本海軍基地にてボランティア活動

6月4日 パールハーバー マキキ日本海軍基地にて献 花
6月4日 パールハーバー マキキ日本海軍基地にて献花


6月14日 サンディエゴ
6月14日 サンディエゴ入港

6月16日 サンディエゴ ローズクラウンで献花
6月16日 サンディエゴ ローズクラウンで献花

6月16日 マウントホープで献花
6月16日 マウントホープで献花


パナマ共和国(パナマシティ)
 
6月30日 パナマ運河通峡
6月30日 パナマ運河通峡

7月28日 パナマ入港歓迎行事
7月28日 パナマ入港歓迎行事

7月28日 パナマ海軍とのスポーツ交歓
7月28日 パナマ海軍とのスポーツ交歓

キューバ共和国(ハバナ)
7月5日 ハバナ入港
7月5日 ハバナ入港

7月6日 ハバナ ホセ・マルティ・メモリアル キューバの国民的英雄「ホセ・マルティ像」に献花
7月6日 ハバナ ホセ・マルティ・メモリアル キューバの国民的英雄「ホセ・マルティ像」に献花


7月12日 ハイライン(洋上訓練)
7月12日 ハイライン(洋上訓練)


トリニダード・トバゴ共和国(ポートオブスペイン)
7月14日 ポートオブスペイン入港
7月14日 ポートオブスペイン入港

7月15日ポートオブスペイン Memorial Parkで献花
7月15日 ポートオブスペイン Memorial Parkで献花

7月17日 トリニダード・トバゴ コーストガードと親善訓練
7月17日 トリニダード・トバゴ コーストガードと親善訓練


ジャマイカ(キングストン)


メキシコ合衆国(アカプルコ)
8月4日 駐メキシコ合衆国 目賀田日本国特命全権大使に対する栄誉礼
8月4日 駐メキシコ合衆国 目賀田日本国特命全権大使に対する栄誉礼

8月4日 アカプルコ 海軍公園内にある無名戦士像に献花
8月4日 アカプルコ 海軍公園内にある無名戦士像に献花



8月14日 赤道祭
8月14日 赤道祭



仏領ポリネシア(パペーテ)
8月21日 パペーテ モーレア島(ポリネシア)仮泊
8月21日 パペーテ モーレア島(ポリネシア)仮泊

8月24日 パペーテ戦争記念碑に献花
8月24日 パペーテ戦争記念碑に献花


ニュージーランド(オークランド)
9月2日 オークランド港
9月2日 オークランド港

9月4日 オークランド 歓迎行事
9月4日 オークランド 歓迎行事

9月4日 オークランド 戦争記念碑(戦争記念博物館内)に献花
9月4日 オークランド 戦争記念碑(戦争記念博物館内)に献花

9月5日 オークランド スポーツ交歓
9月5日 オークランド スポーツ交歓



9月7日 オークランド出港後、タスマン海での占位運動(洋上訓練)
9月7日 オークランド出港後、タスマン海での占位運動(洋上訓練)



オーストラリア連邦(シドニー)
9月11日 シドニー入港
9月11日 シドニー入港

9月12日 実習幹部研修
9月12日 実習幹部研修…オーストラリア海軍艦艇(HMAS PARRAMATTA)を研修


ソロモン諸島(ホニアラ)
9月19日 ホニアラ入港 ガダルカナル未送還遺骨収集活動第4次派遣隊による出迎え
9月19日 ホニアラ入港 ガダルカナル未送還遺骨収集活動第4次派遣隊による出迎え

9月19日 ソロモン諸島ホニアラ港にて、戦没者の遺骨引渡式が行われました
9月19日 ソロモン諸島ホニアラ港にて、戦没者の遺骨引渡式

9月19日 ホニアラ ソロモン平和祈念公苑献花
9月19日 ホニアラ ソロモン平和祈念公苑献花


9月20日 ホニアラ出港後、ソロモン海海戦で散華された英霊を慰霊するため洋上慰霊祭01
9月20日 洋上慰霊祭02
9月20日 ホニアラ出港後、ソロモン海海戦で散華された英霊を慰霊するための洋上慰霊祭


パプアニューギニア独立国(ポートモレスビー)


インドネシア共和国(スラバヤ、ビトゥン


フィリピン共和国(マニラ)
10月13日 マニラに入港した海上自衛隊練習艦隊の「せとゆき」(左)、「あさぎり」(右)と、「かしま」(手前)
10月13日 マニラに入港した海上自衛隊練習艦隊の「せとゆき」「あさぎり」「かしま」



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福岡市の小6道徳副読本問題について

先日、署名協力をお願いしました福岡市の道徳副読本問題ですが、10日の市議会決算特別委員会において福岡市の酒井龍彦教育長
が、「今後、この題材を取り上げないようにする」と述べたそうです。来年度以降に是正、ということになりそうです。ご協力いただいた皆様
に感謝いたします。 今回も、まともに記事にしたのは産経新聞でした。

在日朝鮮人や反日左翼・リベラリストが日本人を貶め断罪するために口にする「朝鮮人強制連行」は、プロパガンダの一種に過ぎず事実
に反しています。戦時下で日本国民に課せられた徴用であり労務動員なのです。外務省が昭和34年に“戦時中に徴用労務者として日本
内地に来られて戦後も日本に残留された在日朝鮮人数は、昭和34年時点で登録されている在日朝鮮人総計約61万人のうち245人のみ
であり、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留したものである”と公式発表しています。
昭和20年(終戦当時)に日本国内に約200万人いた朝鮮人は、翌年3月までに約140万人が政府支援のもと朝鮮半島に帰還しているの
です。つまり、当時の朝鮮人一世・二世たちは、日本政府から強要されたのではなく、自らの意志で日本に留まったということです。

<1959年7月13日 朝日新聞の記事>
1959年7月13日、朝日新聞


「朝鮮人強制連行」については、鄭大均首都大学東京特任教授が平成16年に『在日・強制連行の神話』(文春新書)で検証・論破されて
いますので、一読されることをお薦めします。その鄭大均氏が7月5日に産経に寄稿されていましたので最後に転載しておきます。

        在日・強制連行の神話
        『在日・強制連行の神話』(文春新書)


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2014年10月10日 産経ニュース 【九州の議論】より

小6道徳用副教材に「朝鮮人『強制連行』」記述 10年放置 福岡市教委、不適切として是正へ

福岡市のすべての市立小学校に配布された道徳用の副教材「ぬくもり」(改訂版)の小学校6年生版に、教科書に記載のない朝鮮人の
「強制連行」の記述があり、市教委が不適切として、来年度以降、是正することが9日、わかった。
副教材は教職員らでつくる編集委員会が製作し、市教委を通じて配布していた。問題の記述は少なくとも平成14年からあり、市教委は
長年、チェックすることもなしに放置していた。
問題とされるのは、長崎平和公園(長崎市)に立つ「長崎原爆朝鮮人犠牲者の碑」を取り上げた「アイゴーの叫びはわが胸に」。
ある朝鮮人の戦時中の体験談、という体裁をとっている。この中で、先の大戦中、朝鮮人が日本に連行されたうえ、広島・長崎で原爆の
犠牲になったと説明した。文章に添えられたグラフ「日本における朝鮮人の人口」の中に、「1939年より強制連行がはじまりました」と
記載している。グラフのデータの出典元は書かれていない。
朝鮮人の「強制連行」をめぐっては、外務省は昭和34年に「日本政府が強制的に労働させるために連れてきたものであるというような
誤解や中傷が世間の一部に行われているが、右は事実に反する」との公式見解を発表した。また、日本人と同様に労働が課せられた
合法的な「徴用」と混同されるケースも目立つ。当時の法律では朝鮮人は日本国民であり、朝鮮半島から日本本土への自発的な出稼
ぎも多く、さまざまな見解がある。こうした点を踏まえ、現在小中学校で使用されている検定教科書には、朝鮮人を「強制連行した」との
文言はない。
一方、副教材の選定は各学校に任されているが、文部省(文部科学省)は昭和49年9月、「学習指導要領等の趣旨に従い、(中略)
ことに政治や宗教について特定の政党や宗派に偏った思想、題材によっているなど不公正な立場のものでないよう十分留意すること」
と都道府県教委に通知した。
市教委教育支援課の担当者は、産経新聞の取材に「副教材は教科書に準拠した内容が望ましい。27年度以降に配布する副教材から
は、強制連行の文言を削除する」と語った。現在、使用されている「ぬくもり」については、教科書の内容に沿った授業をするよう、各学校
に通達するとしている。
「ぬくもり」は、教職員らでつくる市人権教育研究会が事務局となり、市人権読本編集委員会がまとめた。平成4年から市内の全小中学
校に配布している。現在の改訂版は13年から順次配布し、問題の6年生版は14年から使われている。市教委によると各校40冊ずつ備
えており、道徳や社会などの授業で使用しているという。市教委側は「チェックする機会がないまま、使用していた」と釈明した。
一方、導入の経緯について、市人権教育研究会事務局の担当者は「当時のことを知る人がおらず詳しいことは分からないが、当然、市教
委側と協議はされているはずだ」と述べ、市教委の関与をほのめかした。
全国的にみても、教職員組合の影響下にある研究会などが副教材を作り教委が採用するケースがある。福岡市の場合も、この馴れ合い
が背景にあったとみられる。
教育問題に詳しい水城四郎市議(みらい福岡)は「朝日新聞の慰安婦虚偽報道が問題になる中で、今回の強制連行の記述が発覚した。
ともに日本を貶め、傷つける内容であり、きちんと是正されるよう追及したい」と語った。 (大森貴弘)

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2014年10月11日 産経ニュース/福岡より

福岡市教育長が是正明言 小学校副教材「強制連行」は削除

福岡市のすべての市立小学校に配布された道徳用副教材「ぬくもり」(改訂版)の小学校6年生版に、教科書に記述のない朝鮮人の
「強制連行」の文言があった問題で、福岡市の酒井龍彦教育長は10日、「今後、この題材を取り上げないようにする」と述べた。
市議会決算特別委で、水城四郎市議(みらい福岡)の質問に答えた。 (大森貴弘)
問題の記述は、ぬくもり小学校6年生版に収録された「アイゴーの叫びはわが胸に」にある。この文章に添えられた「日本における朝鮮
人の人口」と題したグラフの中に「1939年より強制連行がはじまりました」との記載があった。水城氏は「強制連行の記述がある題材
は掲載すべきでない。中学校用の副教材にも同様の記述があり、ともに削除すべきではないか」と求めた。
酒井氏は、来年度以降に配布する副教材から、この文章を削除することを明言した。配布済みの「ぬくもり」についても、「強制連行とい
う言葉を使わないよう学校長に通達し、指導を徹底する」と答弁
した。
これに対し水城氏は、「ぬくもりは全体的に内容がいびつだ。多くのユダヤ人を救った杉原千畝や、和歌山沖で沈没したトルコ軍艦の
乗組員を住民が自らの身を顧みずに救ったエルトゥールル号遭難事件など、先人の行動をもっと盛り込むべきではないか」と述べた。


市人権教育研究会 副読本「ぬくもり」


2014年10月11日 読売新聞/九州版より

「強制連行」記述 副教材を是正へ 福岡市小中の道徳

福岡市教委は10日、市立の全小中学校に配布されている道徳の副教材に、教科書では記載のない朝鮮人の「強制連行」の記述があ
ったことから、改訂版の発行時に記述を是正することを明らかにした。市教委によると、問題になったのは「ぬくもり」と題した副教材。
小学6年生を対象に2002年、中学校にも05年に配布された。小学生向けには「1939年より強制連行が はじまりました」、中学生向け
には「"強制連行"ということばが、頭に浮かんだ」などと記述されていた。
同日の市議会決算特別委員会で、市民から指摘があったことを説明、「強制連行は現在の小中学校の教科書で取り上げられておらず
、これに準拠するよう指導する」と述べた。
小学生向けは来年度、中学生向けは17年度の改訂時に是正を図る方針で、それまでの間は、問題の記述に関して様々な意見がある旨
を説明する
としている。

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2014年10月11日 朝日新聞/九州より

「強制連行」記述 削除検討の方針 福岡の小学校人権読本

福岡市教委が小学6年向けに配った人権読本に、戦時中の朝鮮人労働者の「強制連行」という教科書にはない記述があるとして、市教
委は10日、来年度配る予定の次版から、この記述を削除する方向で検討する方針を明らかにした。市教委によると、現在、市立小学校で
使われている教科書には、「多くの朝鮮や中国の人々を、日本各地の鉱山や工場などで働かせました」とあるが、「強制連行」という言葉
は使われていないと言う。一方、小学6年向けの人権読本「ぬくもり」(改訂版)では、長崎原爆で犠牲になった朝鮮人労働者を取り上げ
た話の中で「1939年より強制連行がはじまりました」と記述がある。
10日の市議会決算特別委員会で水城四郎市議(みらい福岡)が、「今使っている教科書に"強制連行"という記述はない。削除すべきでは
ないか」と指摘。酒井龍彦教育長は「教科書の記述に準じて説明するなど、児童が誤解しないために配慮するよう各校へ通達した」
と答えた。「ぬくもり」は市内の教員らが編集し、市教委がすべての市立小学校に約40冊ずつ配布している。


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2014年7月5日 産経ニュースより

「強制連行」という魔術語

「強制連行」という魔術語を使って在日の由来を語ったのは朴慶植(パクキョンシク)氏の『朝鮮人強制連行の記録』(未来社、1965年)
である。この本には60年代末に出合ったが、ひとごとのような気がした。私は父が「強制連行」で日本に来たのではないことを知っていた
し、周囲の在日一世にもそれらしき人はいなかった。一世とは、無理算段して朝鮮の故郷を脱出した人びとではなかったのか―。
とはいえ、この言葉、ときおり左翼のメディアに現れることはあっても、それ以上の影響力を発揮することがないという時代が長く続いた。
転機になったのは韓国ブームが起き、日韓の間に教科書問題が生じ、在日たちの指紋押捺拒否運動が展開された80年代のことである。
メディアで水先案内人の役を担ったのは左派系の人びとであり、この言葉の流布に一役買ったのは彼らである。
「強制連行」は、大衆化すると変わり身の早い言葉となり、かつてあった名前(徴用、労務動員)をかき消すとともに事実を攪乱させ、やが
ては「慰安婦」というような言葉に結びついて、有頂天の時代を迎える。
強制連行論者は、朝鮮人の男たちが炭鉱や建設現場に送り込まれ、重労働を強いられたのは怪しからんというが、日本人の男たちは戦
場に送られていたのではなかったのか。
日本帝国時代には、日本人も朝鮮人も日本国民だったのであり、徴兵であれ、徴用であれ、戦時期に国民に課せられた運命共同性のよ
うなものだった。戦場に送られた男たちのことを無視して、朝鮮人の男たちの被害者性を特権的に語るのが強制連行論であるが、それは
呆れるほどの偏向ではないのか。拙著『在日・強制連行の神話』(文春新書)は、そんな違和感を動機にしたもので、ある程度の影響力を
発揮したとは思うが、十分なものではない。今読み直してみると、強制連行論の「おかしさ」には触れても、「こわさ」には十分に触れていな
いことにも気がつく。韓国に長くいて、強制連行論が教科書に記述され、博物館に陳列され、歴史テーマパーク化し、ドラマ化され、独断的
な被害者性の主張が民族的、宗教的な情熱で自己実現していく様を目撃していたはずなのに、そのこわさを、十分に伝えてはいないので
ある。一方で、朴慶植氏の衣鉢を継ごうとする者たちの努力も続いている。
2005年に岩波書店から刊行された『朝鮮人戦時労働動員』の著者の一人である山田昭次氏は、「鄭大均の朴批判は、朴の思想を単純
化して理解したために朴の思想の根底に無理解な批判となっている」という。「無理解な批判」とはなにか―。私は、平壌・朝鮮総連(在日
本朝鮮人総連合会)に共鳴する朴慶植氏には、思想的にも方法論的にも問題があまた有ると記したのではなかったか。
外村大(とのむら まさる)氏の『朝鮮人強制連行』(岩波新書、2012年)は、「日本の朝鮮植民地支配は様々な苦痛を朝鮮民族に与えた。
その中でも第二次世界大戦下の労務動員政策は食料供出と並んで、とりわけ民衆を苦しめたものとして知られている」という文に始まる。
外村氏は1966年生まれの東大准教授。この若さで、こんな常套句の羅列では先が思いやられる。
この本、本文では「強制連行」よりは、「労務動員」や「徴用」の言葉を使うのに、書名には『朝鮮人強制連行』とあるのはなぜか。

鄭大均(てい たいきん)1948年岩手県生、2004年日本国籍取得
首都大学東京特任教授。専門は日韓関係。主な著書『韓国のイメージ』(中公新書)
『在日・強制連行の神話』(文春新書)、『姜尚中を批判する』(飛鳥新社)など



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