筑紫の国の片隅で…

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【訃報】 「ナポレオン・ソロ」死す

11月11日、ロバート・ヴォ―ンさんが急性白血病でお亡くなりになりました。享年83歳。ご冥福をお祈りいたします。

ロバート・ボーン死去



2016年11月12日 CNNより
http://www.cnn.co.jp/showbiz/35092071.html
米俳優ロバート・ボーンさん死去 「荒野の七人」「ナポレオン・ソロ」
米映画「荒野の七人」やテレビ番組「0011ナポレオン・ソロ」などへの出演で知られる、米俳優ロバート・
ボーンさんが11日死去した。83歳だった。ボーンさんのマネジャーが明らかにした。
急性白血病を患い、ここ数カ月間闘病生活を続けていたという。
ニューヨーク生まれで、母親は舞台俳優、父親は声優だった。徴兵され、陸軍で教練教官などを務めて除隊
した1960年に俳優業に転身。
映画「都会のジャングル」での演技力が認められアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされたこともある。
情報機関の諜報員のヒーローとして国際的陰謀に立ち向かう「0011ナポレオン・ソロ」での役柄が人気男優
としての地歩を固めるきっかけとなった。ボーンさんは以前のインタビューで同番組について「テレビ版の
ジェームズ・ボンドだった」と振り返ったことがある。「スーパマンⅢ」「タワーリング・インフェルノ」
など映画のヒット作品にも出ていた。 最近では人気テレビ番組の「ロー&オーダー」に登場していた。

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1960年制作「荒野の七人(The Magnificent Seven)」はマイベストムービーの1本ですが、これで7人の
ガンマン全員がいなくなりました。
荒野の七人








「0011ナポレオン・ソロ(The Man from U.N.C.L.E.)」(1964~1968年)

ロバート・ボーン





「0011ナポレオン・ソロ」のロバート・ヴォーンや「スター・トレック」のウイリアム・シャトナーなどの
吹き替えでお馴染みの矢島正明さんが、シネマトゥデイのインタビュー(2016年9月4日)の中でロバート・
ヴォーンとの思い出を語っておられました。
< ヴォーンとは来日時に会い、握手の仕方のスマートさと挙措(=動作)の美しさに感動したという。
さらに記者会見の場で矢島さんが報道陣に交じって質問すると、「オー!マイ・ボイス(私の声の人)」
と覚えていてくれたという思い出もある
http://www.cinematoday.jp/page/N0085697 




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【訃報】 望月三起也先生死去

4月3日午前8時前、漫画家の望月三起也さんが肺腺癌のため川崎市内の病院で亡くなられました。享年77歳。
おりしも3月17~30日、東武百貨店 池袋店で「漫画家デビュー55周年記念 望月三起也作品展」が開催されたばかり
だというのに・・・。 心よりご冥福をお祈りいたします。
産経デジタル「ソナエ」のインタビューで「俺の新選組」(79〜80年)の続編として、新選組を題材にした作品を
書きたいと語っておられましたが、それも叶わぬものとなりました。
私は長年、望月先生のファンですが、「望月マニ也」といわれる方々の様に、熱く作品を語れる訳ではありません。
小学生の時、「少年キング」で連載が始まった「秘密探偵JA」が望月作品との出会いでした。それ以来、独特の
画風やストーリー展開の虜になり、少年誌に連載された作品を読み耽ったものです。「二世部隊」(「最前線」63
年)の存在を知ったのも望月作品でした。 代表作といえば「秘密探偵JA」と「ワイルド7」だと思いますが、
「ケネディ騎士団(66年)」「0ファイター(66年)」「快傑アイアン(68年)」「夜明けのマッキー(70年)」
「ジャパッシュ(71年)」など多くの作品が、記憶に残っています。

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2016年 3月16日 SankeiNews


漫画『ワイルド7』の望月三起也さん、がん告白
余命半年 「人生の締め切りに『新選組』描く!」

『ワイルド7』などで知られる漫画家の望月三起也さん(77)が終活WEBソナエのインタビュー
に応じ、肺癌が見つかり、「長くて1年、短くて半年」との余命宣告を受けたことを明らかにした。
余命宣告を受けた時の思い、残り少ない人生の生き方を赤裸々に語った。


           秘密探偵JA



        ワイルド7(飛葉)



2016年4月4日 NHKニュースより
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160404/k10010466851000.html
漫画家 望月三起也さん死去「ワイルド7」などで人気
漫画「ワイルド7」などの作品で人気を集めた漫画家の望月三起也さんが、3日午前、肺腺癌のため川崎市の病院で
亡くなりました。77歳でした。 望月三起也さんは横浜市で生まれ、漫画家のアシスタントを経たあと昭和35年に
「特ダネを追え」で漫画家としてデビューしました。少年雑誌「少年キング」で連載した「秘密探偵JA」が人気
を集め、その後、昭和44年に連載を始めた「ワイルド7」は、一癖も二癖もある主人公たちがバイクを操って問答
無用で悪をたたくストーリーで大ヒットしテレビドラマや映画にもなりました。
また、熱狂的なサッカーファンとしても知られ、自らアマチュアサッカーチームの監督を務めるなど幅広く活動し
ました。
家族によりますと、望月さんは数年前に肺に癌が見つかり、創作活動を続けながら闘病生活を送っていましたが、
3日午前8時前に川崎市内の病院で、肺腺癌のため77歳で亡くなりました。

■ちばてつやさん「よくやったね、頑張ったね」
漫画家の望月三起也さんが亡くなったことについて、望月さんと同じ77歳で50年余りにわたって親交があった漫画家
のちばてつやさんは、「若い頃、週刊誌の締め切りに追われながら、ともに乗り越えてきました。かつてはライバル
でしたが今は戦友という感じで、亡くなったと聞いてとてもショックです」と死を悼みました。
ちばさんは望月さんと一緒によくスポーツを楽しんだということで、「漫画家は運動不足になりやすいので、互いに
声をかけあって運動会を開いたり野球をしたりして遊びました。望月さんは漫画でアクションを描くのが上手でした
が、本人も運動神経がよく何をやらせてもそつなくこなしていました」と振り返りました。そして、「もうちょっと
元気で描き続けて欲しかったですが、最後の最後まで描いていたので大往生だったと思います。よくやったね、頑張
ったねと言ってあげたいです」と話していました。

■闘病中も新作への情熱
亡くなった望月三起也さんは、癌の闘病を続けながらも生涯現役の漫画家として、最期まで新作への情熱を抱き続け
ていました。望月さんは、先月下旬にも担当の編集者と新作の打ち合わせを行っていました。新作は「新選組北へ」
という仮タイトルで、北海道函館の五稜郭を舞台に、主人公、土方歳三の生き様を描く構想でした。望月さんは過去
に新選組の活躍を描いた漫画、「俺の新選組」を発表していますが、編集者によりますと、この作品で新選組の行く
末を描ききれなかったことを残念がっていて、今回の新作で新選組の物語を完結させたい、と話していたということ
です。望月さんは病室にペンケースとスケッチブックを持ってくるよう家族に頼むなど、最期まで完成に意欲を燃や
していたということですが、叶わぬまま3日、亡くなりました。
新作の出版を予定していた創土社の編集者、増井清一郎さんは、「打ち合わせの際には、何とか新作が単行本になる
まで生きて見届けたいと話していました。先月末に会ったときにも、『五稜郭のある函館に行って、新作のイメージ
をふくらませたい』と話していて、先生の『描き上げたい』という思いを強く感じました。完成した作品をファンに
届けられなくなり、ただ残念です」と話していました。

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2016年4月4日 産経ニュースより
http://www.sankei.com/entertainments/news/160404/ent1604040002-n1.html
「ワイルド7」の漫画家、望月三起也さんが死去 77歳
「ワイルド7」で知られる漫画家の望月三起也さんが3日午前7時56分、肺腺がんのため川崎市中原区の関東労災病院
で死去した。77歳。横浜市出身。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妻、早苗さん。後日、しのぶ会を開く。
1960年「特ダネを追え」でデビュー。吉田竜夫が62年に設立した「竜の子プロダクション(現タツノコプロ)」に参
加し、その後、独立した。「少年キング」で連載した「秘密探偵JA」で人気に。
69年に同誌でスタートした「ワイルド7」が大ヒットし、実写ドラマ化された。当時の少年漫画では珍しいハードボ
イルド系のアクションが人気を集め、連載が10年も続く自身の代表作となった。他の作品に「ケネディ騎士団」「新
ワイルド7」など。

「月刊望月三起也」 
http://wild7.jp/
月刊望月三起也


      望月三起也


2016年3月17日 産経ニュース
http://www.sankei.com/life/news/160317/lif1603170002-n1.html
漫画『ワイルド7』の望月三起也さんが、がんを告白
『ワイルド7』などで知られる漫画家の望月三起也さん(77)が終活WEBソナエのインタビューで、今年1月、肺癌
を患い、医師から余命宣告を受けたことを明らかにした。「長くて1年、短くて半年」。“人生の締め切り”を突きつけ
られた望月さんが集大成として挑む最後の作品への思いとは・・・。

「医師から呼ばれたとき、何となく分かっていたんです。『今度こそ宣告だぞ』って。かみさんと2人で説明を聞い
た後、『あと半年あれば、何とかなるかな』って逆に思いました」
望月さんは余命宣告を受けた際の心情をこう語った。
1970年代、7人の犯罪者で組織された警察集団が悪を制す『ワイルド7』を漫画雑誌「週刊少年キング」(少年画報
社)に連載して大ヒット。以降、数多くの人気漫画を世に送りだしてきた。
余命宣告を受け、残り少ない人生をどう生きるか。「家族のこと、子供のこと、最初は『どうしようかショック』が
あった」という。その中で、望月さんが選択したのは、心残りだった作品を描き上げることだった。
ちょうど、ある出版社から執筆の依頼を受け、題材を「新選組」に決めた。もともと新選組ファンだった望月さんは、
79年から80年にかけて『俺の新選組』という漫画を連載。新選組草創期を描いた作品だが、初代局長の芹沢鴨が暗殺
されるまででストーリーが終わっている。
熱烈なファンからは「いつか続きが読みたい」という声が寄せられ、「最後にファンの期待に応えたい」と、続編に
取り組むことにした。
「言ってみれば、人生最後の締め切り。もうちょっと延ばしてよ、って思うけど、この作品で締め切りにしたい」。
ストーリーはほぼ固まっている。めまいやふらつきがあり一人で歩くのはつらい状態だが、「取材に行くとイメージ
がどんどん湧いてくる」と、春のうち北海道・函館の五稜郭に出かける計画もたてている。
「たぶん、この作品も描き上げるまで持つんだろうと変な自信を持っている」。望月さんはこう語り、最後の作品づ
くりに意欲を示した。
望月さんはファンの集いなどで病状を隠していたが、「嘘をつき続けるのはつらい」と今回のインタビューでの“告白”
に踏み切った。

人生の締めくくりを考えるサイト「終活WEBソナエ」では、望月さんのインタビューの詳報(上)(中)(下)を
お届けします。

インタビューの詳報(上)
http://sonae.sankei.co.jp/interview/article/160315/i_interview0001-n1.html

インタビューの詳報(中)
http://sonae.sankei.co.jp/interview/article/160315/i_interview0002-n1.html

インタビューの詳報(下)
http://sonae.sankei.co.jp/interview/article/160430/i_interview0001-n1.html







災害救助活動中だった兵士8名のご冥福を・・・

残念ながら、米軍当局の願いも虚しく不幸な結果となりました。 ヘリ搭乗員の米海兵隊員6名とネパール軍兵士2名の
ご冥福を心より祈念いたします。

~2015年5月15日 在日米海兵隊HPより~
米軍は自身の危険をかえりみず世界中の災害に対応
世界の何処かで災害が発生したら、支援を要請されるのは誰でしょうか? そう、アメリカと米軍です。
そして米軍は常に対応してきました。今、ネパールで行っているように時として重大なリスクを冒してまでも支援をサポート
するのです。戦闘だけが軍隊を危険な状況に追い込むのではありません。米軍のヘリコプターがネパールでの救援活動
中に行方不明になりました

軍当局は、ヘリコプターが安全な場所に着地していると願っています。墜落した形跡もなく、無線連絡できない山陰に着陸
しているのかも知れませんが、消息を絶つ前の無線連絡で燃料に問題があるとの一報が懸念を抱かせます
4月25日の地震後の人道支援を提供するために、300人の米軍関係者がネパールに飛び、米国際開発庁と協力し合い
支援を提供しています。
米軍は常に災害を救援するために展開します。
最近ではパキスタン、フィリピン、タイ(東日本)だけではなく、西アフリカのエボラとの戦いにも展開しました。米国は1年間
に最大50カ国、70回も使節団を派遣しています。
米国は援助を提供するために、世界中のどの国よりも機材やノウハウがあります ― そして思いやりも。
ペンタゴン職員のジェフリー・プール米海兵隊中佐は、「私たちは物流と運搬手段が豊富です」と話しています。
米国からの支援チームは飛行場整備や水の浄化から食料、水や必需品の配送まで事欠かない支援を提供しています。
消息を絶ったヘリコプターの安全を願い、そしてネパールで支援活動する全ての国際協力関係者の方々の安全と健康を
願っています。

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2015年5月13日 朝日新聞デジタルより
米軍ヘリ、ネパールで行方不明 地震の救援活動中
米国防総省は12日、大地震で多数の死傷者が出ているネパールで救援活動にあたっていた米海兵隊の
ヘリコプターUH1Yが、現地時間の同日午後10時ごろ、消息を絶ち行方不明になったと発表した。
現在米軍などが捜索にあたっている。原因は調査中だという。
UH1Yが消息を絶ったのは、ネパール中部のチャリコット付近。米メディアによると、12日にあった大地震の
後で、海兵隊員6人とネパール軍兵士2人が搭乗し、食料などの救援物資を輸送中だった。
米軍はネパールでの大地震発生後、統合任務部隊を編成し、UH1Y3機のほか、海兵隊MV22オスプレイ
4機など計約300人規模を現地へ派遣し、救援活動にあたっている。 (ワシントン=佐藤武嗣)

5月13日 AFP 米軍ヘリ行方不明

2015年5月13日 AFP(ワシントンD.C.)より
米軍ヘリコプターが行方不明、ネパールで救援物資輸送中
ネパールで地震被災者への救援物資を輸送していた米海兵隊のヘリコプター1が12日、乗員8人を乗せて行方不明
になった。当局が、明らかにした。
米太平洋軍(US Pacific Command)のデイブ・イーストバーン報道官は「人道支援と災害救助活動にあたっていた
ヘリコプターが、チャリコット(Charikot)付近で消息を絶った」と述べた。ヘリコプターには米海兵隊員6人とネパール
軍兵士2人が乗っていた。行方不明のヘリコプターは「UH-1Y ヒューイ(Huey)」で、防水シートとコメを輸送していた。
同機は支援物資を降ろした後、別の目的地に向かったという。
米国防総省のスティーブン・ウォレン報道官によると、同機は行方不明になる直前、乗員が無線で「燃料に問題がある
ことを話していた」ことを明らかにした。
航空機による日没前の捜索では煙や墜落現場などは発見されておらず、同機が安全に緊急着陸をした可能性がある
ことに希望を持っているとウォレン報道官は述べた。
地上ではネパール軍が捜索を続けているが、空中からの捜索は夜明けを待って再開される。

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2015年05月16日 AFP(カトマンズ/ネパール)より
ネパールの米軍ヘリ墜落、兵士8人の死亡を確認
ネパールで大地震の救援活動中だった米海兵隊のヘリコプターが墜落した事故で、アシュトン・カーター米国防長官は
15日、乗っていた海兵隊員6人とネパール軍兵士2人の計8人が死亡したと発表した。
米軍のヘリ「UH-1Y ヒューイ(Huey)」は、大地震の被災地に救援物資を輸送していた12日に行方がわからなくなり、
ヘリコプター複数機と兵士数百人を動員した捜索の結果、15日になって残骸が上空から発見されていた。
ネパール軍幹部によると残骸が見つかった場所は首都カトマンズ(Kathmandu)からおよそ70キロ北東の山中。
その後、米・ネパール両国軍の兵士が徒歩およびヘリコプター2機で墜落現場にたどり着いた。
墜落ヘリの捜索活動を指揮する統合任務部隊のジョン・ウィスラー司令官は「不幸な事故の原因は特定できていない」
と述べ、激しい雷雨のため一時中断している残骸の回収作業を16日にも再開する方針だと語った。

行方不明の米軍ヘリはチャリコット近郊で発見

2015.05.16 Sat CNN(カトマンズ)より
不明米軍ヘリを発見、生存絶望か ネパール
大地震に見舞われたネパールで救援活動中に交信を絶ち行方不明となっていた米軍ヘリコプターについて、米国防総
省の当局者は15日、機体が同国中部チャリコット近郊の山腹で発見されたと明らかにした。生存者はいないとみられる。
米軍によると、機体が発見されたのは首都カトマンズの東約72キロにあるチャリコットの北郊で、町から約12キロの地点。
3人の遺体が発見されたとするネパール軍の報告については確認がとれていないとした。同機には米海兵隊隊員の6人
とネパール軍兵士2人が搭乗していた。
ネパール軍関係者は、ヘリの残骸がゴルサリ地区の標高3400メートルの地点で見つかったと述べた。
同国国防相によると、機体は焼け焦げた状態で、中から遺体が発見されたという。
ネパールで米軍の指揮を執る海兵隊のジョン・ウィスラー中将は、現地の状況を踏まえて同日夕方の捜索を延期すると
発表した。軍によれば、現地付近にはパラシュート部隊4人と戦闘救難員1人が展開しており、今後徹底的な調査を行う
としている。
米国防総省によれば、ヘリの交信が途絶えたのは12日夕方で、救援物資の輸送中だった。無線通信記録から、同機は
燃料系に問題を抱えていたとみられる。
ウィスラー中将は、この事件がネパールでの救援活動に影響をあたえることはないとしている。



テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

1月の訃報ですが・・・

以下の投稿は、1月24日か25日にUPしたと思っていたのですが、小生の手違いか勘違いのためUPされていませんで
したので、内容を一部追加し、改めて投稿させてもらいました。

昨年1月17日に声優の加藤精三さん(「巨人の星」の星一徹役など)が86歳で、27日には同じく声優の永井一郎さん
(「サザエさん」の磯野波平役など)が82歳で鬼籍に入られました・・・。 そして1年、またベテラン声優さんのお一人が
この世を去られました。声優界の大御所的存在だった大塚周夫さんが、1月15日、虚血性心不全でお亡くなりになられ
ました。享年85歳でした。
                    大塚周夫
洋画の吹替えでは、リチャード・ウィドマークやチャールズ・ブロンソンなど渋みのある俳優を担当されていました。
アニメでは、「ルパン三世」の初代石川五右衛門をはじめ、「ゲゲゲの鬼太郎」のねずみ男、「美味しんぼ」の海原雄山や
「忍たま乱太郎」の山田先生などの吹き替えをされていましたね。
時の流れとはいえ、慣れ親しんだ声優さんが一人、また一人とこの世を去られるのは淋しい限りです。皆さん、あの世で
集まってアテレコ大会でもやって、息の合った会話とアドリブ連発で楽しんでいらっしゃるかもしれませんね・・・。
謹んでご冥福をお祈りいたします。。。

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2015年1月17日 朝日新聞デジタルより
大塚周夫さん死去 共演者ら追悼
アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』のねずみ男や『美味しんぼ』の海原雄山の声で知られる、声優で俳優の大塚周夫さん
(享年85)の訃報を受け、生前の共演者らがブログやツイッターを通じて悲しみをつづっている。
『美味しんぼ』で息子・山岡士郎を演じた井上和彦は、17日にツイッターで「え?今知った。大塚周夫さんが…」と
の書き出しで「心からご冥福をお祈りいたします」と追悼。
「美味しんぼの時は朝一緒にコーヒー飲みながらいろいろな話を聞かせてくれたな~」と回顧し、「ありがとうござ
いました」と感謝した。
『バビル2世』で共演した神谷明は自身のブログで「本当に驚いています。初めての主役、バビル2世の収録の時
には、いつも隣に座って下さり、ご自身の体験談などを沢山お話してくださいました」と思い出を振り返り「大塚さん、
ゆっくり休んでください。いつまでも忘れません」とつづった。
『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイ役の古谷徹はツイッタで「僕が子役の頃からだから、もう40年以上のお付き合
いだ。ことあるごとに演技に関する独自の拘りをお話ししてくれた。演技も人柄も個性的な、素晴らしい役者だった。
謹んでお悔やみ申し上げます」とツイート。
また、『うしおととら』の原作者・藤田和日郎氏は、大塚さんが「とら役」を演じた時を思い出しながら「寂しいっす。
大塚さん。とらを生かしてくれて、どうもありがとうございました」と偲んだ。
大塚さんは東京都出身。『ONE PIECE』のゴールド・ロジャーや『忍たま乱太郎』の山田伝蔵のほか、吹き替えでは
米俳優のチャールズ・ブロンソンを担当していた。

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2015年1月23日 日刊スポーツより
大塚周夫さん葬儀、野沢雅子らが弔辞
15日に虚血性心不全で亡くなった、声優で俳優の大塚周夫さん(享年85)の葬儀・告別式が23日、東京・青山葬儀所
で営まれた。この日は大塚さんがねずみ男を演じた「ゲゲゲの鬼太郎」で主人公鬼太郎を演じた声優野沢雅子と、山田
伝蔵先生役を演じたNHKEテレのアニメ「忍たま乱太郎」の原作の漫画「落第忍者乱太郎」の作者・尼子騒兵衛氏が
弔辞を読んだ。
野沢は「チカさん、呼びかけても、今日はもう返事ないね。ひどいわよ。私に別れの言葉を言わすなんて…どうしたらいい
の?」と涙ながらに祭壇に語りかけた。
尼子氏は「中学の頃、洋画が大塚さんとの出会い。“ひと聞きぼれ”という言葉があっていいと思うほどほれ、アイドルを
追いかけるように追いました。『忍たま乱太郎』がアニメ化される時『ワガママは申しませんが、伝蔵先生の声は大塚さん
で』とお願いしました」と涙した。
喪主を務めた長男で声優の大塚明夫は、父の遺影に向かって「おやじ…僕がこの道(声優)を始める一歩を踏み出し
て、父と子だったもの(関係)が師匠と弟子に変質し、おやじの背中を見て育ったのか師匠の背中を見て育ったのか…。
弟子として…と言うより、子から親へ一言だけ。おやじ…ありがとう。そして、お疲れ。ほんじゃあ、またな」と語りかけた。
この日は野沢のほか、井上喜久子、田中真弓、平田広明、森田成一、山寺宏一、田中理恵夫妻ら、声優界を中心に約
250人が参列した。関係者によると、大塚さんは戒名はつけなかったという。

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2015年2月7日 産経ニュース 【さらば愛しき人よ】より
声優、大塚周夫氏
「ブロンソン」「ねずみ男」「ゴールド・ロジャー」…“声の彫刻家”亡くなった日も「収録」


 ゲゲゲの鬼太郎のオールナイトニッポンの収録で
 (ゲゲゲの鬼太郎のオールナイトニッポンの収録にて)

63歳のとき、体力低下などの理由から俳優を引退し、声優に専念する。声優としての当たり役は数多い。
日本では、男性用化粧品のCMで広く知られた米国の俳優チャールズ・ブロンソンの吹き替えをはじめ、アニメ「ゲゲゲ
の鬼太郎」のねずみ男、「チキチキマシン猛レース」のブラック魔王、「美味しんぼ」の海原雄山、「ワンピース」のゴール
ド・ロジャー…。
昭和40年代にテレビで洋画を楽しんだ日本人なら、著名俳優の吹き替えを誰が担当しているかそらで言えたはずだ。
アラン・ドロンなら野沢那智、クリント・イーストウッドなら山田康雄、マリリン・モンローなら向井真理子、オードリー・ヘプ
バーンなら池田昌子、そしてブロンソンなら大塚さん。この組み合わせは絶対に崩せない。
大塚さんは男らしさの権化であるブロンソンと完全に一体化していた。多くの視聴者は大塚さんはブロンソンに似た風
貌をしていると勝手に思いこんでいたように思う。
同じように向井真理子はセクシー、池田昌子は清楚な美貌を持った女性に違いない、と感じていた。
それが、ずるさの権化であるねずみ男の声を演じるとは。この落差。プロとはそういうものかもしれない。
テレビドラマのアクション俳優として売り出していた1961年、東京新聞のインタビューで大塚さんは「子供のときには彫
刻家になりたかった」と発言している。父の辰夫は日展無鑑査の彫刻家、叔父は「東洋のロダン」と称された彫刻家の
朝倉文夫。文夫の娘は舞台美術家の朝倉摂。芸術一家の生まれであった。東京都出身。
中学時代にボクシングとダンスを始め、自らの体を彫琢(ちょうたく)しながら上野の美術学校をめざしていた。ところが、
新宿第一劇場で見た芝居に心奪われ、戦後創設された劇団東俳に入り役者稼業に。
テレビドラマの放送が始まると、鍛え抜かれた身体を見込まれ、悪役のアクション俳優として重用された。特に殴られ役
として丹波哲郎さんに愛されたという。
米俳優リチャード・ウィドマークに憧れ、彼の芝居を熱心に研究していたおり、テレビで洋画の吹き替えが求められるよう
になる。テレビ関係者に「ウィドマークの吹き替えをやらせてほしい」と頼んで回り、願い通りその仕事を獲得する。
こうして、俳優と声優の掛け持ち人生が始まった。
先輩俳優である森川信さんの影響で自在な「間」を体得しようと寄席に通った。趣味はヘラブナ釣りだが、釣り仲間の言
動を観察して、「間」を研究した。2004年、朝日新聞でこう語っている。
「ある若手が、声の仕事は塗り絵みたいなものだって言った。決められた所に決められた色をあてはめる、という意味で
しょう。僕は絶対違うと思う。彫刻なんだ。声でその役に立体感をださなきゃ意味がない」
まさに声の彫刻家として歩んだ後半生だった。長男の声優、大塚明夫さんによると、亡くなったその日も吹き替えの収録
をしたという。

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2015年01月21日 NHKオンライン BSコラムより
追悼 大塚周夫さん
1月15日に、クセのある脇役を演じさせたらピカイチと定評のある、俳優・声優の大塚周夫さんが亡くなられました。
生前、何度かインタビューさせていただきましたので、ご遺族である長男・明夫さんのご了解を得て、大塚さんの足跡を
たどりながら、その言葉のいくつかを再録し、故人をしのぶこととさせていただきます。 (略)
大塚さんは、親しい人には「ちかちゃん」という愛称で呼ばれていました。風貌を思い浮かべると、笑みを浮かべている顔
しか出てきません。いつも、にこやかに話される方でした。
お話ししていると「ようござんす」、「しちまう」、「そっすね」などの昔懐かしい東京下町の言葉がよく出てきました。ですか
ら下町の生まれだと思っていましたが、うかがってみると生まれは東京・山の手の世田谷だそうです。
趣味は人間観察と釣りでした。特に釣り(池や川専門)は大好きで、今のお住まいを決めた時も、近所に釣りができる池
があったからだとおっしゃっていました。また、釣りに行くと、いろいろな方が居て、よく観察することで、演技の勉強になっ
たとも……。
大塚さんの役者人生は長く、さまざまな経験を積んできたそうです。例えば戦後まもなく、ショービジネスの世界に入った
きっかけは戦前にダンスを習っていたからだそうです。これはもともと身体が弱かったため、ダンスを習わされたからだ
そうで、ソシアルからタップまで、数多くのダンスを会得していらっしゃいました。タップダンスでは、その昔、有名店だった
赤坂にあるグランドキャバレー(今の“キャバレー”とは異なり、歌や踊りを食事しながら楽しむ場所だったそうです)にも
出演していたそうです。

大塚:戦争で死んじゃったけど、ボクには歳の離れた兄がいてね、ダンス教室にボクを通わせるよう母に勧めたんです。
戦前だけど時局が厳しくなっていたから、高校生が繁華街を歩くと問題になる。そこで『弟の迎えです』と言って、兄は
ダンス教室のある新宿をぶらついていたというわけ(笑)。
戦後、進駐軍がやってきて、あちこちのキャバレーでダンサーが必要になったんです。オーディションがあって、ダンサー
はABCのランクに分けられるんだけど、それに合格してダンサーをやっていたの。おかげで姿勢が良くなって、自然とこ
う(上着の胸元を広げる仕草をしながら)胸の部分がスッと張れるの。だから見栄えが良くって『大塚さん、良い洋服着
てるんですか?』って、よく言われました。ダンスもクラッシック(手を伸ばしてソシアルダンスの仕草をする)からタップま
でやっていたから(いきなり立ち上がって足を踏み鳴らす)。

ダンサーとして活躍していた大塚さんですが、膝の関節炎を患ったため、芝居の道を志し、劇団東芸に入団します。
この頃はまだテレビ放送も始まっておらず、当然、吹き替えなどの仕事もありませんでした。大八車などに小道具や衣装
などを積み、都内の小学校などを回って、昔話を題材にした芝居を演じて糊口(ここう)をしのいでいました。
やがてラジオドラマの仕事が少しずつ来るようになり、続いてテレビドラマの仕事が入るようになったそうです。

大塚:ラジオも最初はドラマのエキストラばかりで、俗に言うガヤでした。その後、テレビドラマや映画に端役で出るように
なったの。ほとんどが殴られてのびるチンピラ役ばかりだったけど(笑)。

そうした中で外画(がいが・外国制作の映像作品)の声優をやろうと思うきっかけが訪れます。

大塚:たまたま観た映画に出演していた、俳優のリチャード・ウィドマークの芝居が気に入って、何度も観て、その凄みの
ある演技を研究したのがきっかけ。そのあと外画の吹き替えが始まると、TV局にリチャード・ウィドマークの吹き替えをや
らせて欲しいと売り込みに行ったの。当時、そんな変なことを言う奴はほかにいなかったし、NTV(日本テレビ)のプロデ
ューサーに、それならやらせてみようと、『襲われた幌馬車』(1956年アメリカ・NTV初回放送は1963年10月13日)の
仕事が来たんです。そこで念願のウィドマークの声を演じたの。

ウィドマークの役は、コマンチ族に育てられたコマンチ・トッド役で、映画では主人公でした。
この作品以降、舞台と吹き替えの両方をこなすようになっていきます。大塚さんは吹き替えの黎明期である1950年代、
外画の吹き替えだけでも1か月に48本やったこともあるそうです。これは、当時、いかに売れっ子だったかを物語る数字
と言えるでしょう。
やがて、当時はまだテレビまんがと呼ばれていたアニメ作品のレギュラー出演が立て続けに決まります。それが「ゲゲゲ
の鬼太郎」のネズミ男役と、「チキチキマシン猛レース」のブラック魔王でした。この頃になると、リチャード・ウィドマークと
チャールズ・ブロンソンの吹き替えは、各局とも大塚さんに依頼するようになっていました。
なお、当時は、ジョン・ウェインなら小林昭二、アラン・ドロンなら野沢那智、オードリー・ヘプバーンなら池田昌子、という
ように、声のキャスティングが俳優ごとに決まっていた時代でした。現在、キーファー・サザーランドやジョージ・クルーニ
ーの吹き替えといえば小山力也さんが担当する、といった形式はこの延長線にあると言えます。
そうした中で大塚さんは、その歯切れの良い滑舌と、アドリブも多用したはまり役を得ます。新聞記者のカール・コルチャ
ックが、さまざまな怪事件に出会い、怪物や超常現象と戦う異色の海外ドラマ『事件記者コルチャック』でした。

大塚:コルチャックを演じたダーレン・マクギャヴィンっていう俳優さんは、けっこう気難しい人なんだそうです。お芝居に
アドリブがそうとう入っているらしい。ですから、その感じを出すために、台本になくても、向こうの口の動きに合わせて入
れたり、また背中を向けたときに音声がなくてもディレクター(『事件記者コルチャック』の演出は、『ER 緊急救命室』
と同じ佐藤敏夫さん)と相談して入れたりしました。
そうした演技には演出家・俳優の早野寿郎から誘われて入った俳優小劇場での経験が役に立ちました。コルチャックが
ゾンビの口に塩を詰めて糸で縫うときなんかも、『やだね、あー、いやだいやだ』とかぼやくでしょ。ああいう台詞(せりふ)
は台本にはなくてあたしのアドリブなんです。あのシリーズでは、『やだね~』と『やだね』と『やだやだ』、『やっだっねぇ
え』、みんな違うんですよ。場面によってはいくらでも「やだね」が入れられたの。だから、たくさん使ったねぇ。アドリブは、
コルチャックを演じる前に『ブラック魔王』で、さんざんやらされましたからね…

米国のアニメ「チキチキマシン猛レース」や、そのスピンオフ「スカイキッドブラック魔王」では、原音には台詞があまりな
いため、収録の時は朝から晩まで、何度もアドリブを交えながらリハーサルをしたそうです。犬のケンケン役の神山卓三
さんは、あの「クッシッシッ」っていう独自の笑い声が決まるまでは、何度もテイクを重ねられたそうです。
現在の海外ドラマでは、製作会社の意向で、台詞の変更や、現場でアドリブを入れるのは禁止されていますが、当時は
かなりおおらかだったそうです。

大塚:あるとき『チキチキ』の収録現場に制作会社のハンナ・バーベラ・プロダクションの担当者が見学に来て、ボクらが
演じているのを見て『どうぞご自由にやってください』と言ってくれたもの。 面白くしようという気持ちがみんなにありまし
たから。

大塚さんが演じた『事件記者コルチャック』の主人公コルチャックは、江戸っ子みたいなべらんめぇ口調が多かったので
すが、そのヒントになった作品があります。

大塚:映画『男はつらいよ』の初代おいちゃん役の俳優で有名な森川信さんという人がいるんだけど、あの方はコメディ
アンもやっていたの。一緒に仕事させていただいてからその影響で落語を勉強して、その成果が『あらやだ!』『?なんす
かねぇ』とか、面白い間(ま)を覚えたんです。 海外ドラマの場合は、束縛があっても、その中でどのくらい自分の演技が
できるかが問題なんです。

役者にとって大事なことはなんでしょう? という質問には、こういうお答えが返ってきました。

大塚:良い芝居を見て勉強するのも大切。そしてやはり“間”は大事です。間だけで芝居する人が大好きなんです。あとは
人間観察。ボクは趣味がヘラブナ釣りなんだけど、釣り仲間を観察するの。
『どう?』と訊いて、パッと『全然ダメ!』と間のない人もいるし、『………今日はだめです』と間をすご~く、とる人もいる。
そうした人たちの“間”を覚えて、頭の中の引き出しに入れておくわけ。

映画や海外ドラマ、アニメなどで様々な役を演じている大塚さんは、画面を観ただけで、演技プランがひらめくそうです。

大塚:そうね。ここ(頭を指す)に色々なしゃべり方とか間が入っているの。だから画面を観たらスッと入っていけるんです。
ああ、このキャラクターはあれとあれを組み合わせて、こうすればいいとか出てくるんです。

そうした吹き替えの仕事中で、もっとも勉強になったのは、NET(現テレビ朝日)の日曜洋画劇場だったといいます。
この映画枠、毎週約30人が固定でキープ(拘束)されていたそうで、それも達者な人ばかり。そのメンバーで毎回吹き替
える作品の配役を決めていく……。つまり、同じ劇団で毎週、異なる公演を行うようなモノだったそうです。

大塚:だから毎週、収録スタジオに行って、30日に1回くらいのペースで主役が来る。1回主役したら、あとはちょい役で
かまわないんですよ。その代わり、『あ、じゃあ俺やるよ。それもやるやる、大丈夫』なんつって。『ここ空いてんのに誰か入
れないの?』『じゃあ二役やっちゃえ』とかね…。

最近はご自分が声の出演をされた作品を、家で見返すこともあるそうです。

大塚:若い頃のは恥ずかしいんで、あまり見たくないです。自分で意識してこうありたいというふうになってからは、どのく
らいできているか見たいことがありますけど、むやみやたらとやっている頃のは、恥ずかしいほうが多い。
『コルチャック』はもう少し役者が目覚めていますから。このくらいやりゃあどこに出しても平気だろうって(笑)。
ナレーションなんかとくに一所懸命やりましたよね。どなたでもけっこうです、勝負しましょうっていう気持ちありますもん、
コルチャックは。

インタビューを行った時は、メインが『事件記者コルチャック』についてでした。大塚さんに、このシリーズのパイロット版
(2本あります)の日本吹き替え版がないと説明すると「やりてぇなぁ。元気なうちに」とおっしゃっていました。
今ではそれもかなわぬことになりましたが、今まで吹き替えされた多くの作品が、ソフトとして遺(のこ)されています。
これからはそうしたソフトでしか、お声をお聞きすることができないのかと思うと残念でなりません。
ご長男で、同じく声優業についていらっしゃる大塚明夫さんによると、周夫さんは、亡くなった当日も収録されていたそう
です。 まさに「生涯現役」を絵に描いたような人生でした。 大塚さん、長い間お疲れさまでした。

by 岸川靖(編集者・ライター)









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岡崎久彦氏が逝去

10月26日、元駐タイ大使で外交評論家の岡崎久彦氏が逝去されました。
心よりご冥福をお祈りいたします。

安倍晋三fbより


10月28日 産経 岡崎久彦氏死去


平成26年10月28日 産経新聞より

【評伝】外交評論家 岡崎久彦

岡崎久彦元駐タイ大使

知性と気迫備えた侍

エレガントなサムライ-それが岡崎さんだった。社交の場ではほほえみを浮かべながら、歩み寄ってくる相手の話にじっくり
と耳を傾け、穏やかな口調で的確なコメントを返す。「大使の社交とはかくあるべし」と思わせる振る舞いだった。
安倍晋三さんが自民党総裁に返り咲いた直後のことだ。評論家の金美齢さんのお宅でお祝いのパーティーが開かれたとき、
歩み寄ってきた安倍さんを笑顔で迎え、ゆったりと談笑する姿が強く印象に残っている。岡崎さんには、周りの者が教えを請
いたくなるようなオーラが確かにあった。
民主党が政権の座にあったとき、同党若手国会議員の要請でキッシンジャーの『外交』全31章を読み解く勉強会の講師を
務めた。20世紀の米国外交を知る上で欠かせぬ文献の監訳者である岡崎さんが直々に講義するとあって、自民党からも
多数の若手が参加した。月1回のペースで開かれた勉強会は8カ月続き、講義録はただちに『二十一世紀をいかに生き抜
くか』というタイトルでPHP研究所から出版された。同書は外交戦略を考える者にとって必読の書である。
岡崎さんというと知性の人という印象が強いが、日本を危うくするものに対してはいかなる批判も恐れることなく、言論で戦
いを挑む気迫を持っていた。
そのよい例が遊就館の反米展示を批判した平成18年8月24日の産経新聞「正論」欄の文章である。

《戦時経済により、アメリカが不況の影響から最終的に脱却したことは客観的な事実であろうが、それを意図的
にやったなどという史観に対しては、私はまさに(米保守派論客のジョージ・)ウイル氏が使ったと同じような表現
-歴史判断として未熟、一方的な、安っぽく、知性のモラルを欠いた、等々の表現-しか使いようがない》

と、米国が不況脱却のために資源の乏しい日本を経済制裁によって戦争に追い込み、これにより米経済は回復したという
史観を批判した。その上で、

《私は遊就館が、問題の個所を撤去するよう求める…この安っぽい歴史観は靖国の尊厳を傷つけるものである。
私は真剣である。この展示を続けるならば、私は靖国をかばえなくなるとまであえて言う》

と強い覚悟を示した。この文章が保守陣営、特に反米保守といわれる人々に与えた衝撃は計り知れなかった。
(桑原聡)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2014年10月27日20時36分 朝日新聞デジタルより

岡崎久彦・元駐タイ大使が死去 安倍首相の外交ブレーン

元駐タイ大使で、外交評論家の岡崎久彦(おかざき ひさひこ)さんが26日、死去した。84歳だった。
通夜、葬儀は近親者のみで行う。喪主は妻昭子さん。後日、しのぶ会を開く予定。
1952年に外務省入省。同省情報調査局長や駐サウジアラビア大使、駐タイ大使を歴任し、92年に
辞職後は「親米保守」の論客として知られた。
同省調査企画部長だった83年に、歴史を踏まえた国家戦略論を説いた著書「戦略的思考とは何か」
がベストセラーとなり、テレビの討論番組などにも数多く出演した。
2004年には当時、自民党幹事長だった安倍晋三首相と共著「この国を守る決意」を出版した。
安倍首相の外交政策のブレーンを務め、第1次、第2次安倍政権で、首相の私的諮問機関「安全保障
の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)のメンバーを務め、集団的自衛権の行使容認
に道を開く報告書をまとめた。

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平成26年7月5日 産経ニュースより

「新3要件」譲りすぎではない 元駐タイ大使・岡崎久彦氏

新たな「武力の行使」の新3要件は、譲りすぎたために動かないのではないかという説がある。だが、私はそう思わない。
この3要件でいいと思っている。
日本に自衛権があるというのは、(昭和34年の)「砂川事件」判決が、集団的自衛権か個別的自衛権かを区別せずに
認めている。また、自衛権は必要最小限度でなければならないが、これまで必要最小限度の線を集団的自衛権と個別
的自衛権の間で引いてきた。これは法理論的にむちゃくちゃな話だ。新たな3要件は、正当防衛と過剰防衛に線を引い
ている。必要最小限度を定義する正攻法だ。鉄砲を1発撃つことは、場合によっては国家の命運にかかわる。
どんな場合でも首相の決断を仰ぎ、首相は国家の命運を考えて、最終決断を下さなければいけない。
キューバ危機のケネディ米大統領も、フォークランド紛争のサッチャー英首相もそうだったが、本当に国家の安危なのか
判断しなくてはならない。3要件のこの表現であっても、本当に国家の安危にかかわるなら、何でもできる。
平成2(1990)年にイラクのフセイン大統領(当時)がクウェートを占領した。そのころは日米経済摩擦がひどいときで、
米国内では日本は同盟国ではないという意見が強かった。そんなときに日本が自衛隊を出さずに、中国が出兵したら、
アジアにおける米国のパートナーは日本ではなく、中国となってしまう。日米安全保障条約は吹っ飛び、日本の安全を根
底から覆す。
今回の閣議決定ならば、あのときも自衛隊を出せるだろう。いざという場合に、国の安全が根底から覆るかどうかを考え
て、首相が決定すればいい。防衛出動が下令されれば、軍事力を使えるが、それ以外の場合はほとんど使えない。警察
と同じだ。それを直さなければいけない。その作業が今年の秋にある。
米国の冗談だが、泥棒が逃げようとしているときに、米国の警察官は「止まらなければ拳銃を撃つぞ」と警告する。だが
日本の警察官はそう言わない。「止まらなければ、もう一度、『止まれ』と言うぞ」と言うだけだ。その場合に泥棒に向かっ
て拳銃を撃てるように法律を変えるのが今度の目的だ。

【プロフィル】
岡崎久彦(おかざき ひさひこ)昭和5年、大連出身。東大在学中に外交官試験に合格、27年に外務省入省。
情報調査局長、駐サウジアラビア大使、駐タイ大使などを務める。政府の「安全保障の法的基盤の再構築に
関する懇談会」のメンバー。現在、NPO法人岡崎研究所所長。84歳。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
平成26年7月2日 産経ニュース 【正論】

苦節35年、集団的自衛権の時がきた 元駐タイ日本大使・岡崎久彦

ついに集団的自衛権の行使容認が閣議決定された。35年間、待ちに待った決定である。
私が防衛庁に勤務していた1980年ごろ、ソ連艦隊はベトナムのカムラン湾に基地を構えて、南シナ海の航行を脅かし
た。イラン・イラク戦争が勃発して、ペルシャ湾の航行も脅かされていた。この日本にとって死活的な重要性のある、東京
湾からペルシャ湾までのオイルルートの防衛は米国第7艦隊の任務だった。

《石油ルート哨戒に加われず》
それは楽な勤務ではなかった。甲板上は昼は40~50度となり、当時の船の冷房では、夜もろくに気温は下がらず、ゆっ
くり眠って体を休めることもできなかった。当時来訪した横須賀基地の米軍司令官は私に訴えた。
「そういう辛い任務をしていると、来る船来る船日本のタンカーだ。私には日本の政治事情は分かるが、水兵たちには分
からない。どうして日本の海上自衛隊はパトロールに参加しないのだと不平が収まらない。そういう状況だということだ
けは分かってほしい」と。しかし、海上自衛隊はパトロールに参加できなかった。自分の艦は守れても、一緒に行動してい
る米艦は守れない。また、日本の船は守れても、米国やアジア諸国の船は守れない。さらに、日本の船なるものがない。
ほとんどがリベリア船籍かパナマ船籍である。それを守れるかと法制局に聞けば、集団的自衛権行使の疑いがあると言
われてしまう。当時の解釈ではそれでおしまいだった。
奇妙なことに、今回の集団的自衛権論議の最中に、ここにあるような事例は事実上ほとんど解決されてしまった。
反対論は、何も集団的自衛権と言わなくても、個別的自衛権で解決できるではないかという議論が中心となった。
確かに日本にとって死活的な石油ラインを守るための米艦の防護であり、外国籍でも日章旗を掲げた船を守るためで
あるならば、個別的自衛権でもよいという拡大解釈はあり得る。従来の政府解釈を現実に即して変更するというのなら、
現在政府がとっている立場とほとんど同じであり、国民的総意は既にできているといってよい。

《海自の信頼回復と同盟強化》
いずれにしても、政府解釈の変更はもう決まったのだから日本はパトロールに参加できる。
ただ、具体的な武力行使となると場合によっては法律の整備が必要となる。関連法案提出は政府の公約であり、この秋
に整備されよう。ただ、その前でもパトロールには参加できるし、参加すべきである。
慎重を期せば、法的に問題のある武力行使は、法整備までは米側に任せておけばよい。参加するだけで抑止力になるし
、世界最高を誇る日本の哨戒能力だけでも参加の価値がある。何よりも、米軍とともに汗を流すことが同盟の絆を固め
る。これで、35年間失われていた海上自衛隊への信頼が回復し、日米同盟は強固になり、日本国民の安全がそれだけ
高まるのである。
私個人の感触では、それにとどまらない。もしあの時、海上自衛隊が常時パトロールに参加していたら、日本人の規律、
能力が抜群であることは誰の目にも明らかに映り、また、沿岸のアジア諸国にとって脅威となるような海軍でないことも
明らかになっていたであろう。東南アジアは、日本が戦後半世紀以上営々として経済、技術協力の面で貢献してきた金
城湯池であるにもかかわらず、日本は政治、軍事面では無能力者だとこの地域で思われてきたが、そのイメージを払拭
できる。

《「長い空白」急いで埋めよ》
そうなれば、日本、ドイツなどが国連安保理常任理事国入りを目指した2005年の安保理改革決議案(廃案)の共同提案
国として、ドイツの隣国のフランス、ベルギーが参加したのに対し、日本の近隣の中国、韓国はもとより東南アジア諸国連
合(ASEAN)10カ国までもが中国におびえて一国も名を連ねなかったという、国辱的な状態も避け得たと思う。
今月には安倍晋三首相のオーストラリア訪問があり、やがてモディ・インド首相の訪日がある。そして、年内には日米防衛
協力の指針(ガイドライン)の改定もある。集団的自衛権の政府解釈の確定によって、横須賀からインド洋に至る海上交通
路(シーレーン)の防衛について、豪、印、米と建設的に話し合えるのである。
米国はシェールガス・オイルの開発により、自身のエネルギー源確保のための湾岸地域の重要性が低下すると予想され
る。米国防費の伸び悩みもあり、同盟国の負担を求める声は高くなっても低くなることはないであろう。
全ての場合において、日本にとって死活的重要性のある石油ラインの防衛について、新たな国際協調に向かって進む
チャンスである。日米豪印の接触に際してシーレーンの防衛について、今すぐにでも、具体的協議に入るよう防衛当局者
に指示すべきである。 35年間の国益のタイムロスを埋めるのである。一刻も失う時間的余裕はない。




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