筑紫の国の片隅で…

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

平成26年8月15日 全国戦没者追悼式

69回目の終戦の日を迎えるあたり、英霊に感謝の意を捧げるとともに、心から追悼の念を表したいと思います。

終戦から69年 全国戦没者追悼式

平成26年8月15日 戦没者追悼式

終戦から69年を迎えた15日、およそ310万人の戦没者を慰霊する政府主催の全国戦没者追悼式が、東京の日本武道館で
行われました。式典には全国の遺族の代表などおよそ6000人が参列しました。
天皇皇后両陛下が菊の花で飾られた式壇に着かれたあと、安倍総理大臣が
「戦没者の皆様の貴い犠牲の上に今、私たちが享受する平和と繁栄があります。そのことを片時たりとも忘れません。歴史に
謙虚に向き合い、その教訓を深く胸に刻みながら、今を生きる世代、そして明日(あす)を生きる世代のために国の未来を切り
拓いてまいります」と式辞を述べました。そして、正午の時報とともに、参列者全員で1分間の黙とうをささげました。
続いて天皇陛下が「さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々と、その遺族を思い深い悲しみを新たにい
たします。歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対
し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と、おことばを述べられました。
このあと遺族を代表して、昭和19年にサイパンで夫を亡くした愛知県豊橋市の牧野笑子さん(88)が「最愛の肉親を失った
私たち遺族の悲しみは、ことばでは語り尽くせないほど、深く切ないものでございます。過去の悲惨な戦争から学んだ教訓と
平和の尊さを次の世代にしっかりと伝え、この悲しい歴史を二度と繰り返さないことをお誓い申し上げます」
と追悼の辞を述べました。
終戦から69年を迎え、遺族の高齢化は一層進み、参列した遺族のおよそ8割が70歳以上になりました。最年長の参列者で
神奈川県相模原市に住む100歳の難波いそさんは、終戦の半年前に夫の壽一さんをフィリピンのルソン島の戦闘で亡くしま
した。難波さんは「戦時中は空襲がひどくて友達も皆亡くなり、100歳まで生きてこられるとは思いませんでした。これからもず
っと平和が続いてほしいと思います」と話していました。また最年少の参列者で、鹿児島県奄美市に住む7歳の福田鈴さんは
、曽祖父の重岡秀彦さんが終戦の翌年に満州で亡くなりました。福田さんは、「1人寂しく中国で亡くなったひいおじいさんが
かわいそうです。戦争は怖いので、しないでほしいです」と話していました。
式典では、参列者が式壇に菊の花を手向けて、戦争で亡くなったおよそ310万人の霊を慰めるとともに平和への誓いを新た
にしました。

◇首相 戦没者墓苑で献花
安倍総理大臣は政府主催の「全国戦没者追悼式」に出席するのに先立って、午前11時半ごろ東京・千鳥ヶ淵の戦没者墓苑
を訪れました。そして花束をささげ、深々と頭を下げ、戦没者の霊を慰めました。
千鳥ヶ淵の戦没者墓苑には、第2次世界大戦で戦死し名前が分からないため遺族に引き渡すことのできない遺骨が納められ
ています。 (2014年(平成26年)8月15日 NHKニュースより)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
全国戦没者追悼式 安倍首相が式辞


「平和への誓い新たに」 戦没者追悼式 首相式辞の全文

天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表、多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。
祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊(みたま)、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられた御霊、いま
その御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。戦没者の皆様の、貴い犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と
、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません。
いまだ、ふるさとへの帰還を果たされていないご遺骨のことも、決して忘れません。過日、パプアニューギニアにて、ジャングルで命を
落とされ海原に散った12万を超える方々を想い、手を合わせてまいりました。いまは、来し方を想い、しばし瞑目(めいもく)し、静かに
頭(こうべ)を垂れたいと思います。
日本の野山を、蝉しぐれが包んでいます。69年前もそうだったのでしょう。歳月がいかに流れても、私たちには変えてはならない道が
あります。今日は、その、平和への誓いを新たにする日です。私たちは歴史に謙虚に向き合い、その教訓を深く胸に刻みながら、今を
生きる世代、そして、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。
世界の恒久平和に、能(あた)うる限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。
終わりにいま一度、戦没者の御霊に永久(とわ)の安らぎと、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞と致します。

平成二十六年八月十五日
内閣総理大臣 安倍晋三



全国戦没者追悼式 天皇陛下がお言葉を述べられる


天皇陛下のお言葉の全文

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った
数多くの人々と、その遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来すでに69年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時を
忍ぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、心か
ら追悼の意を表し、世界の平和と、我が国の一層の発展を祈ります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

FNNnewsCH (14/08/15)
朝日新聞「慰安婦」記事取り消し 前代未聞の事態に波紋広がる






スポンサーサイト

テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

テキサス親父が泣いた理由は・・・

1945年の2月10日に「空の要塞」と言われるB29が東京の北側にある中島飛行機太田工場への
大規模な空爆が行われました。
日本軍が対空砲で1機を撃ち墜落する間にもう1機のB29にぶつかり結果として2機とも墜落し
23人のアメリカ兵が死亡すると言う事があった。
墜落したB29は「ディーナー・ボーイ」と「スリックス・チックス」という名前でした。
群馬県の邑楽町では、この23人の兵士を火葬しお寺に埋葬しました。
戦争が終わり、この遺灰は米国に引き渡しました。
その68年後に群馬の人々は、お寺にこの23人の亡くなった米国兵の慰霊碑を建てました。
太平洋戦争末期に米軍のB29爆撃機2機が邑楽町秋妻地区に墜落し、亡くなった米兵23人を
追悼する合同慰霊祭が3月20日、地元の清岩寺(木崎伸雄住職)で営まれました。
地元関係者と米軍横田基地の空輸中隊、遺族ら約100人が出席し慰霊碑を除幕して冥福を祈り
ました。(動画解説より抜粋)



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

カナダ人の女の子が靖国神社を紹介している、ごく普通の動画です。
支那人や朝鮮人には、彼女の話しが理解不能かも知れませんね。





テーマ:動画 - ジャンル:その他

3月10日は「東京大空襲」の日

本日は「東京大空襲」の日であります。
米軍による本土空襲は、1944年11月から終戦間際にかけて、100回以上も繰り返されました。
その中でも昭和20年3月10日の「東京大空襲」は、一夜にして10万人以上の尊い市民の命が
奪われるという、最大級の空襲だったのです。
「東京大空襲」から半年余りの間に、墨田区・江東区などの下町一帯をはじめ、原宿や銀座など
東京の各地が焼き尽くされました。この焼夷弾による無差別爆撃の犠牲者は、女性や子供そして
老人であり、その殆どが非戦闘員だったにも拘わらず、米国は「産業基盤を破壊し、戦意を喪失
させるための作戦だった」と詭弁を弄しています。
日本本土への執拗な空爆は、無差別に民間人を大量殺戮しており、明らかに国際法違反行為で
あり、断じて許されるべきものではないのです。

廃墟の東京


~参考~
WWII Occupation of Tokyo Japan 1945 - Bomb Damage


--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
平成26年3月10日 産経新聞より

■東京大空襲69年で法要 遺族ら参列、東京都慰霊堂
約10万人が死亡したとされる太平洋戦争末期の東京大空襲から69年を迎えた10日、犠牲者らの遺骨
が安置されている東京都慰霊堂(墨田区)で秋篠宮ご夫妻ご臨席のもと、舛添要一知事、遺族らが
参列し、慰霊の法要が営まれた。
東京大空襲は昭和20年3月10日未明にあった。300機を超える米爆撃機B29が大量の焼夷弾を無差別
に投下し、下町を中心に大きな被害が出た。
都によると、昨年1年間で新たに209人の犠牲者の氏名が判明。都が作成し、慰霊堂近くの祈念碑の
内部に保管している犠牲者名簿の人数は計8万150人になった。
慰霊堂には関東大震災の犠牲者の遺骨も納められており、毎年3月10日と9月1日に慰霊の法要が営ま
れている。

       慰霊の法要=10日

■「ここに家族がいる」 東京大空襲から69年 法要に遺族ら約400人
約10万人が亡くなった東京大空襲から69年となった10日、犠牲者らの遺骨が安置されている東京都
慰霊堂(東京都墨田区)で法要が営まれた。
法要には遺族ら約400人が出席。平和への誓いを新たにした。秋篠宮ご夫妻も参列し、焼香された。
舛添要一都知事は「東日本大震災の傷跡はいまだ消えていない」とした上で「都民が安心して暮ら
せる首都東京の創造を改めて誓う」と追悼の辞を述べた。
大空襲で祖父母や弟、叔母らを亡くした豊島区の若松紀子さん(73)は「4歳で両親と逃げた。乳母
車の中から鉛色の(米爆撃機)B29が飛んでいるのが目の前に見えた。都電の乗客がこちらに手を
振っていたが、火に包まれ助けを求めていたようだ」と振り返った。
父の慰霊に来たという練馬区の鈴木浩一さん(88)は大空襲の際、工場で当直をしていたために難を
逃れた。母や妹とともに父を探しまわったが、遺体はおろか自宅すら見つけられなかった。「遺品
は岐阜県の実家に送られた英語や漢文の本。取り寄せて今も大切に持っている」と父を偲んだ。
両親と2人の姉、弟を失い、疎開先で生き残ったという中野区の深山君子さん(78)は「墓に入れる
遺骨もない。小学6年のころから毎年、ここに家族がいると信じて会いに来ている」と手を合わせ
ていた。
東京大空襲は昭和20年3月10日未明に発生。米爆撃機B29が現在の東京都江東区、墨田区などに
焼夷弾を投下した。死者は10万人以上、焼失家屋は27万戸とされる。
都では犠牲者名簿をまとめており、昨年に新たに犠牲者209人の氏名が判明。計8万150人分が慰霊
堂脇の祈念碑に納められている。

       参列された秋篠宮ご夫妻=10日

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
2014年03月10日 毎日新聞より

東京大空襲:69年「二度とおきないように」慰霊の法要

約10万人が犠牲になったとされる東京大空襲から69年となる10日、東京都墨田区の都慰霊堂で
大空襲と関東大震災の犠牲者を悼む「春季慰霊大法要」(東京都慰霊協会主催)が営まれ、遺族
ら約320人が参列した。法要には、秋篠宮ご夫妻や舛添要一都知事らも出席。
舛添知事は「戦争の悲惨さと戦災の脅威を語り継がねばならない」と追悼の辞を述べた。
慰霊堂内には焼香台が設置され、多くの遺族らが犠牲者の冥福を祈った。
大空襲で父を失った東京都品川区の池田もと子さん(78)は「あんな悲しいことが二度とおきない
ように、父がやすらかに眠れるように、毎年お祈りに来ています」と話した。
1945年3月10日未明にあった東京大空襲では、約300機の米爆撃機B29が焼夷弾を無差別に投下し
隅田川両岸の下町一帯に大きな被害が出た。
約26万戸の家屋が焼失、100万人以上が被災し、原爆を除く通常の空襲としては史上最大規模の
犠牲者が出たとされる。 【木村敦彦】




映画 『永遠の0』 を観ましたか?

2月10日発表の映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)によると、「永遠の0」が8週連続で
首位を獲得したそうです。これで昨年7月に公開された「風立ちぬ」の連続1位記録に並んだと
のことで、累計動員数は578万人、興行収入は70億円を突破したそうであります。凄いですね。

 eien0.jpg

そんな話題作を、遅ればせながら観てまいりました。★4.5の評価とさせてもらいます。
話しの流れもテンポも良く、バランス感覚のとれた素晴らしい作品だと思います。CGによるVFXも
実に素晴らしいものでした。惜しむらくは「大東亜戦争」と言わず、「太平洋戦争」という表現を
していたことと、最後に流れるサザンの主題歌で感動が薄れてしまったことですね。
せめて「海ゆかば」を使って欲しかったです。
とはいえ、何回も涙ぐんでしまい、思わず嗚咽をあげそうになったシーンもありました。戦争映画
というより、過去と現在を零戦が繋ぐ人間ドラマだと思います。
実のところ、小川榮太郎氏の「『永遠の0』と日本人」を読んで、「映画を見たら絶対泣くな」と
感じていましたので、泣くまいと無駄な抵抗を試みたのですが、やはり泣いてしまいました。
私の世代は「戦争を知らない子供たち」でいいんだ。戦争の無い平和な世界で生きているんだから
それでいいじゃないか。忌まわしい過去など知りたくもない-----そんな思春期を過ごしました。
だから「太平洋戦争」でも「第二次世界大戦」でも構わなかったし、「終戦の日」なんてどうでも
よかった。米国のTVドラマやハリウッド製の戦争映画を何の疑いもなく、受け入れ楽しんでいた。
アジアの国々を侵略し、強大な米国に無謀な戦争を挑んだ日本が悪いんだと思っていたから、戦死し
た親族や親戚のことさえ、余り関心が無かったし知ろうともしなかった。
でもそれではいけなかったんです。ちゃんと過去と向き合い、何があったのかを学び知るべきだった
のです。戦争で生き残って帰ってきた兵士一人ひとりに、其々の物語があり、苦悩が有ったはずです。
それを私たちが受け継ぎ、次の世代に伝えていくべきだったのです。
この映画を見終って、改めて考えさせられました。

映画『永遠の0』予告編


映画『永遠の0』オフィシャル・サイト

======================================================================

三橋貴明の「新」日本経済新聞より

映画『永遠の0』はなぜ素晴らしいのか!?

 From 古谷経衡(評論家/著述家 月刊三橋ナビゲーター)

百田尚樹氏が原作の映画『永遠の0』を観てきました。
結論から言いますと、全国民が義務として観なければならない日本映画史に残る大傑作です。
見ていない方は、今すぐ映画館に行ったほうがよろしい(笑)。私は既に2回行って来ました。

続きは以下のURLへ
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/01/17/furuya-13/


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2014年01月14日 ニューズウィーク日本語版より

祖父と私と「永遠の0」

おじいちゃんは「戦争犯罪人」だった――私がそれを知ったのは、今から16年前、高校生のときだ。
祖父稲木誠は第2次大戦中、岩手県釜石市にあった連合軍捕虜収容所の所長を務めていた。

続きは以下のURLへ
http://www.newsweekjapan.jp/newsroom/2014/01/post-274.php

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

        『永遠の0』と日本人
    

『永遠の0』と日本人 (小川榮太郎著/幻冬舎新書)
この本を読んだ感想について書こうと思うのですが、私は学生時代から、いわゆる「読書感想文」
がとても苦手で、どうしても上手く表現できません。
そこで邪道ではありますが、アマゾンの読書レビューの中に、私と同じような感想を持たれた方の
ものがありましたので、それを引用させていただこうと思います。

レビュー〈鋭く深い歴史洞察・分析・そして熱い思い、心の奥底に届く感動でした〉より

映画でも小説でもないのに、なぜか涙が止まらない程の感動を受けました。
単に小説と映画を結び付け解説してあるだけではありません。事実をベースにして、冷徹に鋭く
同時に慈愛と哀切に満ちた内容でした。そう感じたのは、筆者の文体、構成力などによるもので
しょう。評論というものはかくあるべき、といった点でも大いに感銘をうけました。
本書の流れとしては、小説・映画「永遠の0」を通して見えてくる世界、さらにはこの映画の公開
時期に奇遇にも近く公開された映画「風立ちぬ」と「終戦のエンペラー」の解説を通して、一層
読者を深く引きずり込むようになっています。説得力があるのは、私たちが見過ごしている史実
を土台にしているからです。事実は事実、誰も逆らえません。
本の帯に「特攻とはなんだったのか?」とあり、まさしくこのことについて、そして日本のこと、
そして今を生きる私たち日本人のことについて深く考えさせられました。
これらのことにこれほど深く、長く真剣に考えたことがなかったのに思い至り、恥じたくらいです。
個人的なことですが、昭和一桁生まれの私の両親から、そして祖父母からも、今まで『あの戦争』
のことを詳しく聞いた覚えがありません。それが何故なのか、今まで殆ど考えてもいなかったこと
を、この本を読んで自分なりに気づきを得ました。
戦争に出征した兵士を、戦後は途端に冷たい目でみていたのが当時の日本であることを、私も主
に書籍を通じて知っておりましたが、それが何故かずっと疑問でした。本書はその疑問を氷解させ
くれました。両親は祖父母がなぜ語りたがらないのか、私たち日本人に共通する負い目のようなも
のを感じました。
日本にとって、明治維新より大きな出来事であったことを本書を読んで痛感し、一歩間違うと属国
になっていておかしくない日本に身震いしたほどです。
本書のもたらす価値の一つは、今現在を生きている日本人に私たちが普段、しかも殆どの人が疑わ
ない平和な生活、同時にそれがずっと続くと無頓着に信じている状況がどのようにそうなったのか
なぜそうなっているのか、を真摯に深く考えさせてくれる点にあると感じます。
さらに、今ある日本人の生活と一見無関係な”特攻”がどのように関わっているのか、大きく目を開
かされた思いがあります。
「十死零生」の特攻自体が、現在の価値観では作戦上の失敗であることを疑う人はいないだろうと
思いますが、特攻で犠牲になった方々の想いや精神が、実は結果的に戦後の平和な日本に繋がっ
ているという現実をまざまざと教えてくれます。この点が非常に衝撃的でした。私たちの今ある日本
は、本当にギリギリのところで救われてこうなっているという実感に圧倒されました。
『永遠の0』小説を読んだことのある人、映画を観たことのある人にとっても、さらに理解が深まる
こと請け合いです。逆に本書を読んだら、もう一度「永遠の0」映画を観たい!本を読みたい!と感
じるのではないでしょうか。



テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

元大日本帝国陸軍少尉・小野田寛郎さん死去

1月16日に91歳で亡くなられた元大日本帝国陸軍少尉・小野田寛郎さんについて米国で報道され
たのみならず、ブラジルでも報じられました。また「ロシアの声」でも取り上げていました。
世界各国で「最後の日本兵」として尊敬されていたんですね。
心よりご冥福をお祈りいたします。(最敬礼)

小野田寛郎さん=1974年3月 11日





=====================================================================
2014年1月20日 サンパウロ新聞【東京支社=瀬頭明男】より

小野田寛郎さんが死去 ルバング島で戦った30年
ブラジル移住後、福島で「自然塾」も


1975年にブラジル移住した元陸軍少尉の小野田寛郎さんが16日、東京都内の病院で亡くなった。
91歳だった。2012年ごろから体調を崩すことが多くなり、入退院を繰り返していた。
12年2月、ブラジルから日本に戻る途中のニューヨークで倒れ、緊急入院したこともあった。
今回は年明けの6日に体調を崩し都内の病院に入院、肺炎にかかり帰らぬ人となった。
小野田さんの一生は、波乱に富んだ人生だった。
1942年、和歌山歩兵連隊に入隊後、予備士官学校を経て諜報・防諜を学ぶ陸軍中野学校二俣分
教所で情報将校としての訓練を受け、44年フィリピン・ルバング島に派遣された。
終戦後も同地に残置諜者として残り、74年に任務解除命令を受け帰還するまでの30年間、戦闘を
続行していた。長期にわたって戦い続けた理由を小野田さんは本紙に「日本の本土が占領された
ことは分かっていた。それでも活動を続けることが、私に与えられた任務だった」と話している。
小野田さんは投降勧告、日本からの捜索隊の呼び掛けに応じることもなく、74年3月に当時の上官
による作戦解除命令によってやっと帰還した。
この30年間に、小野田さんと一緒に作戦に従事していた島田庄一伍長、小塚金七一等兵は現地で
亡くなり1人だけでの帰還だった。
翌75年、兄の格郎(ただお)さんが住むブラジルへの移住を決意、実行に移した。移住を決意した
理由を小野田さんは「当時、日本人に準敵国人のように見られ暮らしにくかった。新しいことをやる
ならブラジルにしよう、そこなら日本人の目を気にせずに暮らせるだろうと思った」と語っている。
ブラジルでは、バルゼア・アレグレ移住地(マット・グロッソ・ド・スル州)に1,200ヘクタールの土地
を購入、そこで牧畜業を始めた。10年たって軌道に乗り、移住地の日本人会会長を務めるなどの余裕
も生まれた。
その後、日本で子供が両親を金属バットで殴り殺すという事件が起きた時、「このような子供は可愛
そうだ。子供たちの役に立とう」と84年、福島県に「小野田自然塾」を開き、子供たちの教育に力を
入れ始めた。この自然塾に参加した子供は2万人を超える。
この頃から小野田さんは、日本とブラジルを往来しながらの生活に入り、北陸大学、拓殖大学などで
講師として勤めたり、各地で講演を行っていた。
小野田さんは「私が死んだら自然塾も終わりです。建物などは町に譲渡する手もありますが、使い方
が分からなければお荷物になりかねない」と話しており、その去就をどうするかを明言しないまま逝
ってしまった。小野田自然塾では22日に会合を持ち、今後のことについて話し合うことにしている。
自然塾のある福島県・塙(はなわ)町でも「自然塾の意向がはっきりしてから対応を協議したい」と
している。   
バルゼア・アレグレ移住地関係者によると、小野田さんは昨年12月初旬から数日間、来伯して同移住地
を訪問。その目的は、自身の土地を処分するための委任状を手渡すためだったという。
またカンポ・グランデ空港に見送った移住地関係者によると小野田さんは、「もう来られないだろう
から」と話していたそうだ。
生前、小野田さんと懇意にしていた兵庫県人会長の尾西貞夫さん(70、兵庫)は同氏の人柄について
「温厚な人だったが頑固な性格で、こうと思ったら引かない人だった」と語る。
また、70年代に小野田さんがバルゼア・アレグレ移住地の農場を造成する際に、元プロレスラーの
アントニオ猪木氏らが資金貸与するなど協力したことや、陸軍中野学校二俣分教所の同期で小野田
さんの面倒を見た、故末次一郎氏のことなどにも触れ、当時のことを振り返った。
小野田さんは、2004年にサントス・ドゥモン章、05年に藍綬褒章を受章。マット・グロッソ・ド・スル
州の名誉州民でもあった。


■小野田寛郎さんを偲ぶ
小野田寛郎さんが亡くなった。
1974年、ルバング島から帰還した小野田さんは、兄の小野田格郎さんがブラジルに移住していたこと
もあり、同年、弊社の創業者・水本光任の招きで来伯。それが縁でブラジルに移住し、妻の町枝さんと
の結婚式も水本夫妻が仲人となり水本邸で行われた。
▼マット・グロッソ・ド・スル州のバルゼア・アレグレで牧場を営み、その後本拠を日本に据えたが、毎年、
 年末年始には来伯していた。以前からサンパウロで小野田さんの講演会を開きたいと考えていたの
 だが、なかなか実現できなかった。
▼一昨年の正月だった。体調を崩していたのだが、ご本人は最後のブラジル行きを覚悟して来伯した。
 「これを逃したらもうできない。最初で最後の講演会を」と思い、断られることを承知の上で講師を
 お願いした。妻の町枝さんはじめ周囲の人たちは「無理だよ。ちょっと考えさせて」と否定的だっ
 たのだが、牧場で元気を取り戻した小野田さんは、「いいよ、やりましょう」と快諾してくれた。
▼講演会直前に演壇に椅子を用意し「座って話してはどうか」と問いかけたら「そんな失礼なことは
 できない。椅子は必要ない」と一蹴。1時間以上にこやかな表情、で立ったまま講演を続けた。
 講演会は大盛況で終えたのだが、その2日後、小野田さんのブラジルの友人から帰国途中の乗り継ぎ地
 のニューヨークで体調を崩し、入院したという知らせが入った。電話をもらった時、絶句した。
 幸い事なきを得て、数日後に日本に帰国した話を聞き胸をなでおろした。
▼小野田さんは話し好きで一人で話し続ける。4年ほど前にサンパウロから日本まで同じ飛行機だった
 ことがある。記憶力が優れており、移住直後から付き合いのあった本紙記者のことや、コロニアの話を
 続け、最近東京に建てた自宅の話を事細かに説明してくれたことを思い出す。
▼そして80年代に会った時、イタイプー発電所ができたために、牧場周辺の気候が変わってしまったと嘆
 いた。環境保護の重要性に心を砕く人でもあった。
▼戦後69年、一つの時代が終わった。 合掌。(鈴)

        G20140117DDD1900044G3000000.jpg


平成26年1月19日(日) 産経新聞 【ニューヨーク=黒沢潤】

「日本人の誇り喚起」 米紙が小野田寛郎さん称賛

米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は17日、フィリピン・ルバング島で30年間潜伏任務を続け16日
に死去した元陸軍少尉の小野田寛郎さんの評伝を掲載した。
評伝は小野田さんについて「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じてい
た誇りを喚起した」と指摘。「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだった
かもしれないが、日本人には義務と忍耐(の尊さ)について知らしめた」と強調した。
小野田さんがフィリピンのマルコス大統領(当時)に1974年3月、投降の印として軍刀を手渡したとき
「多くの者にとっては格式のある、古いサムライのようだった」と形容した。
また、小野田さんの出征前の日本は「紙と木からなる牧歌的な地」だったが、約30年を経て帰国した
母国は「高層ビルやテレビ、ジェット機などがある未来型の世界」へと変貌を遂げていたと指摘した。
一方、米紙ワシントン・ポスト(電子版)も同日「彼は戦争が引き起こした破壊的状況から、経済大国へ
と移行する国家にとって骨董のような存在になっていた忍耐、恭順、犠牲といった戦前の価値を体現し
た人物だった」と論評。多くの軍人は「処刑への恐怖」から潜伏生活を続けたが、小野田さんは任務
に忠実であり続けたがゆえに「(多くの人々の)心を揺さぶった」と讃えた。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
2014年1月18日 CNN(東京)

小野田寛郎さんが死去 終戦信じず30年間戦い続ける

第2次世界大戦が続いていると信じ、終戦後フィリピンのジャングルに30年間近く潜んで任務を続けた
元陸軍少尉、小野田寛郎さんが16日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。91歳だった。
小野田さんは、1944年にフィリピン西部のルバング島に諜報活動を行うために派遣された。
戦争終盤に連合軍がフィリピンで日本軍を破ったが、小野田さんは拘束を逃れた。
米軍が次々と押し寄せる中、ルバング島にいた日本兵の大半は撤退か降伏をしたが、小野田さんは数人
の仲間とともにジャングルに潜伏し、終戦を告げるメッセージを信じなかった。
その後29年間、ジャングルで集めた食料や盗んだ農作物を食べて生き延びていたが、仲間たちが次々と
この世を去り、小野田さんは1974年についに潜伏をやめ姿を現した。
そして小野田さんの元指揮官がルバング島で小野田さんと面会し、小野田さんの任務が解除されたこと
を告げた。ぼろぼろの軍服姿の小野田さんは、終戦から30年近くたってようやく自分の剣を引き渡した。
小野田さんは当時のインタビューの中で、日本兵は誰もが死ぬ覚悟を持っているが、自分は諜報員として
死なずにゲリラ戦を続けるよう命じられたと述べ、さらに兵士である以上、命令に従う必要があったと
付け加えた。
小野田さんは74年に帰国したが、75年にブラジルに移住し牧場を開設した。
84年にはルバング島のジャングルで習得したサバイバルやキャンピング技術を日本の子供たちに伝え
るために、小野田自然塾を立ち上げた。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

2014年1月17日 産経ニュース

小野田寛郎さん死去
終戦知らずルバング島30年間任務続行


戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなど
を養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎さんが、16日午後04時29分、肺炎のため都内の病院で
死去したことが17日分かった。91歳だった。葬儀・告別式は親族のみで行う。
後日お別れの会を開く予定。遺族らによると、体調を崩して6日から入院していたという。
大正11年、和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ、昭和19年に諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後
情報将校としてフィリピンへ派遣。20年の終戦後も任務解除の命令が届かず、ルバング島の密林にこもっ
て戦闘を続け、49年3月に任務解除命令を受けて帰国した。50年にはブラジルへ移住し牧場を開業。
平成元年には小野田自然塾を開設し、ルバング島での経験を基に、キャンプ生活を通した野外活動などで
ボランティアの育成などに尽力した。近年は都内で生活し、国内各地で講演を行っていた。

■高度成長下「敬礼」に衝撃
戦後30年近くにわたってルバング島の密林にこもって戦闘を続けた小野田寛郎さんが、91歳で死去した。
元上官の任務解除命令を受けて昭和49年に投降した小野田さんは、現地で記者らの前に古びた軍服と戦闘
帽で現れ、直立不動のまま「敬礼」した。
この姿は高度経済成長を謳歌していた日本人に衝撃を与え、同年3月、日航特別機で帰国した際には、両親
をはじめ大勢の人が日の丸の小旗を手に出迎えた。
小野田さんがルバング島に渡ったのは、戦況が不利となっていた昭和19年12月。
陸軍中野学校二俣分校で秘密戦の訓練を受け「日本軍が負け、ルバング島が占領されても生き長らえて
後方攪乱し、日本軍が再上陸したときに残置諜者としてこれを誘導する」との密命を受けていた。
このため「上司の命令があるまで終戦はこない」と信じていた。
47年、フィリピン警察との撃ち合いで仲間の元陸軍一等兵、小塚金七さんを失い1人で山中に逃げたこと
から日本政府が救援に乗り出した。
帰国後は、ルバング島の経験を生かし全国各地で「自然塾」を開いた。キャンプ生活を通じて子供たち
に自然の大切さや知恵を教え、平成元年、福島県に小野田自然塾を整備した。
平成17年に、戦後60年の終戦記念日の本紙企画で、ジャーナリストの櫻井よしこさんと対談した際は、行き
すぎた利己主義を懸念し、「他人がまったく目に入っていないような感じがします。日本の今の人たちに
信義があるのか、とも感じています」と、国の行く末を案じていた。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

2014年1月17日 The Voice of Russia(「ロシアの声」)より

「最後の日本兵」小野田氏がなぜロシアで感動を呼ぶのか

日本の敗戦後、フィリピンのルソン島で30年もパルチザンとして生活を続けた小野田寛郎さんが91歳で
亡くなった。

「小野田さんは、おそらく、日本人兵士としては世界で一番名の知れた人物だっただろう。
勇敢さ、兵士としての忍耐強さの手本だった。この人は百年たっても語り継がれるだろう」

これは数年前、ロシア語のあるサイトに載せられた一文だ。
大体、ロシアでは小野田さんについては大きな新聞もふくめ、本当に色んなところで書きたてられた。
そして、そうした文章は殆どいつも尊敬の念がこめられ、感激に満ちたものだった。
また、小野田さん以外の日本兵で東南アジアのジャングルのなかに何十年も潜み、司令官の命令を守り
続けた人々に対しても同じように、ソ連人は感動を表したものだった。
20世紀、2度も日本と戦った経験を持つロシアが、これだけ感動したことも何も驚くことはない。
兵士としての義務に忠誠を誓う姿勢は、ロシアでは常に最も重要度の高い美徳とされてきたもので
ロシア帝国でもソ連でも青少年に教え込もうとされてきたことだった。
アジアのジャングルの中で日本兵が相次いで見つかり、その人たちが第2次大戦が終わったことを知ら
なかった、または信じようとしなかったことがソ連のプレスで紹介されると、多くのロシア人は1941年
に書かれた『誠実な言葉』というソ連時代の有名な話を思い起こした。
その話は単純なものだった。夜遅く、作者はペテルブルグの中心にある庭園で職員の小屋に小さな男の
子を見つける。もう遅いのに、この子はどうしても家にかえろうとはしない。何故なら、ここで他の子
たちと戦争ごっこをしていたときに、自分の持ち場を離れないということを誓ったからだ。
ところが約束をさせた子どもらは、さっさとそのことを忘れて家に帰ってしまった。この子だけは、家に
帰ることができない。それは約束をしたからだった。この話を聞いた後、作者は通りで少佐をみつけ、
この子に持ち場を離れて、家に帰るよう命じてもらう。
ソ連時代この話は、小学校低学年の児童の必須図書だった。おそらく、誰もこの話に無関心ではいられな
かっただろう。この話も、その後の小野田さんの話しと同じだったからだ。

ここで、ロシアのサイトやブログに掲載された小野田さんの話への反響をご紹介しよう。
・アンドレイ・クリロヴィチ
 でも彼自身はこれを英雄的行為とはとらえていない。彼は言われた命令を遂行しつづけた。
 これは日本では当たり前のことだ。この経験から学ばねばならない。
・アレクサンドル・ショルヴァエフ
 インタビューの答えがよかった。「私は日本が強く、繁栄することを願って戦った。
 そして今ここに来て、やはり日本は本当に強く、繁栄した国だった」ということは、彼の戦いは
 無駄ではなかったんだ。
・エレンジェン・ジュカエフ
 本当に強い人だ。ものすごく強い…。本当の意味で自分の祖国の正真正銘の兵士だったんだ。
・アレクセイ・アソノフ
 小野田さんのために東京都心で銅像をたてなければ。これこそ自分の国のまことの愛国者だ!

(上記コメントはhttp://vk.com/club1649025#/topic-1649025_2128788から引用)

アンドレイ・イワノフ

-----------------------------------------------------------------------------------------------------
訃報 小野田寛郎さん91歳=戦後も比の山中に29年 毎日新聞



テーマ:訃報 - ジャンル:ニュース

次のページ

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。